司祭 クリストファー 奥村貴充
ある人から透明の小袋に入ったからし種をもらったことがあります。種というよりも小さな粒が入っている感じで、日曜学校で小袋を見せるとリアリティがあって小学生たちにも分かりやすかったと思います。
さて、今日の福音書(マルコ4:26〜34)は成長する種のたとえ話とからし種の譬え話です。この中で大切なのは32節「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」です。
新約聖書には律法学者がよく登場します。細かな掟(宗教上のルール)を人々に無理強いさせ、守らせる。それができない場合、罪人というレッテルを貼ってしまうという姿に、民衆は苦しめられていた状態でした。
これに対してイエスが今日の譬え話を使って主張したことは、たとえ「からし種」のように小さい人生だったとしても、神は育てて大きくしようという御計画があるということを言わんとしています。
ところで私の知人はそれまでのつらい経験があって、人生の途中で道を踏み外しました。一般的に言うと社会的には小さい存在です。しかし神は見捨てることはありませんでした。ふとしたことがきっかけで、今まで神から離れていたところ、心を神の方向に向けていくように変えられていきます。それによって、これからの人生は小さくされた人とともに歩んでいきたい、知人はそうした志が与えられていったのでした。
もしかしたらそれまでのつらい経験があったからこそ、他の人の痛みや苦しみを理解できる感性を持っているではないでしょうか。これを信仰的に言うならば、神の国のために働いていく人へと大きく成長させて下さったと言えます。弱いひな鳥のような人をも受け入れていけるような、共に生きる社会のために知人の働きが用いられるようになっていくのでした。
そういった成長させて下さる神の愛があることを、イエスは「からし種」の譬えを使って説明したのでした。
こういうふうに、この地上での神の国の実現に向けて聖書を通してメッセージが投げかけられています。神の国の価値観はこの世の価値観とは正反対で、共に生きる社会です。そういった社会が成長していけるように、そして1人1人が成長していけるように聖書を通じて招いておられます。成長させて下さる神に信頼を置いて、自信を持って歩んでいきたい次第です。
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