2024年6月2日 聖霊降臨後第2主日(B年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

掟は誰のためのもの?

 わたしが中学・高校生だった数十年前、まだまだ「管理教育」という言葉が日常的に使われていました。生徒たちは大人(教師)によって「管理」されて当たり前、未熟な存在とみなされていたのです。髪型や髪の色、制服の着用方法だけでなく日常生活にいたるまでこまごまとした制約があたりまえのように行われていました。それに対して疑問を抱くこともなく、どちらかといえば過剰適応気味に、校則どおりの生活を送ってきた身としては、最近の「ブラック校則」のおかしさを取り上げる報道に驚いたものです。また「校則は誰のためのもの?」という疑問や不平不満を口にするばかりでなく、生徒たちが自分たちの生活を整えるための決まりを作るという動きがあちらこちらで見られるようになってきました。今を生きる中高生たちのそんな様子がまぶしく見えてしまうのです。
 さて、安息日に畑のそばを通っているとき、イエスさまの弟子たちが麦の穂を摘んで食べているのを目撃されたところから今日の福音書の物語が始まります。
 安息日とは、神さまが6日間かけて天と地、太陽と月、星たち、海、陸地とそこに生きるさまざまないのち、人間をおつくりになりました。出来上がった様子をみて「極めて良かった」と言われて7日目に休まれたという創世記1章1節〜2章3節の物語に由来します。安息日にはすべての仕事を休み、神さまの天地創造のすべてを覚えて礼拝する日として大切にされていたのです。ただ、安息日だからといってすべての仕事を休むことができないので、このくらいまでは認められるという細則が付け加えられていったようです(家事労働にもこの細則は及んでいたようです)。
 安息日に許される範囲の距離を旅しておられたイエスさま一行でしたが、弟子たちが空腹のあまり、道沿いの畑の麦の穂を摘んだのです。それは安息日に認められている範囲を超えた「仕事」でした。それを見たファリサイ派の人々が「安息日にしてはならないことをしている」と咎めました。それに対して、イエスさまは、ダビデ王を引き合いに出されました。ダビデ王が空腹だったときに祭壇に供えられたパンを取って家来たちと共に食べたことを例にして、「安息日が人のために定められたのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言われたのでした。
 安息日を守り生活することによって、適切に休む(人間だけではく、畑や家畜も休ませる)ことができ、その日には、神さまのことを考え、礼拝することができます。それは人間のために大切なことです。しかし安息日の「してはならない禁止リスト」によって、あれもこれもダメ、と不自由になるのは、本末転倒ではないか、と言われるのです。
 決まり(掟)は何のため、誰のためのものなのか。この物語を手掛かりとして考えてみたいと思います。