司祭 アンデレ 松山健作
「能登半島地震を通して想うこと」
神がイエスさまを世にお遣わしにしたのは「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)ゆえでした。神は背く世を捨て去ることができずに、イエスさまを遣わし、命の道を示されます。イエスさまが去った後も、その業を受け継ぎ、世に神の愛を示すのは弟子たちの役目であり、また聖霊として遣わされる神の御力が及ぶことを約束されます。
先日、能登半島地震の被災地珠洲でのボランティアに参加しました。珠洲市はいまだに90%が断水し、1月1日の状態のままのところが多くあります。津波の被害も激しく、倒壊し瓦礫と化した家々が衝撃的な風景として目に飛び込んできます。多くの方が二次避難の不安な中で生活を取り戻すことができずに生活しています。
ボランティアでは、山間にあるご家庭の倉庫のお掃除を手伝いました。現在、珠洲市でなんとか生活できている方は、自力で水を引いたり、トイレを修理して公的支援を待たずして自給的に復旧しておられる方が多いのだろうと思います。一人では片付けも大変ですが、何人かと力を合わせれば作業も進みます。働きながらお話をすることができ、大層喜んでおられました。
ボランティアは、喜んでもらうことが目的ではありません。また信仰を語ったり、キリスト者が善良であることを示す慈善事業をしていると自負することでもないでしょう。不安と苦しみ、悲しみを経験された方々のお話を聞き、一緒に作業をする時間を共有することを通して、生活を失った方々が再び生活を取り戻していく営みにお邪魔をしながらこの世の状況を見届けていく必要があるように感じています。
能登半島地震そのものは大きな自然災害でしたが、その後そのままの4ヶ月の風景を見ていると人災ではないかと感じる時があります。多くの方が悲しみ苦しみの中にいるままの状態であり、それが数ヶ月放置されているように見えます。
イエスさまは、告別説教の中で弟子たちに対して、悪い者から守ってくださるようにと神に願います。(ヨハネ17:15)「悪」というものを想定しています。自然災害と重ね合わせるとき、「悪」とはなんなのでしょうか。被災地で苦しんでいる方々への私たちの無関心でしょうか。あるいは、為政者たちの復旧に対する支援のあり方や眼差しでしょうか。イエスさまのおっしゃる神と対立する「世」を現時点で明確に示すことは難しいかもしれません。けれども、私たちの住む世の中には、神が愛する人間存在を苦しみに陥れる悪が存在するのだろう思います。生活を奪い、それらを蝕む力が存在し、苦しみ不安の中で放置される社会構造に生きています。
そのような世なる闇にイエスさまが聖霊を遣わし、また弟子を遣わすことによって、共に歩む中で、苦しみや悲しみが癒やされますようにと願っています。
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