2024年4月14日 復活節第3主日(B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

「…あなたがたと一緒にいたのは、預言書はリアル・ほんとうに・実現ということ…」(ルカ福音書24章44節)

 死んだはずのイエスが生きて、おそれと不信の人たちの中に立つ(復活の記述)とはどういうことなのだろうか。
 「心を開いて」と語りかけるイエスをイメージすることと、「その名に帰依(エンパシー)することで罪の赦しを得るメタノイア(悔い改め)を宣教する人(世界)に変わるのだ」という壮大な救いのイメージ、この二つは繋がるのかも…、という気づきを与えてくれている。ルカ福音書が今日私たちを「リアルとは何か?」に招いていることに心を潜めたい。
 イエス様は、たとえば7章36節以下(マタイ26:13ほか)にあるように「罪深い女」と呼ばれた女性に同情した。いわゆる偽善に陥り易いシンパシーというより、「深くエンパシーを持った」、つまりその女性を「隣人」とし敬愛し拝むようなイエス様が描かれていると読めます。もし私たちも今世界の不条理のゆえに悲しむ人を、イエス様に重ねて思いやり、尊敬するなら私たちの教会、社会が変わって行くだろう。隣人(分かち合う必要を気づかせてくれる人)を発見することこそ、自分を愛することを発見し、不信と恐れからの立ち直りが実現されること。この出来事を教会は「本当に主はよみがえられた」と宣言したのです。
 その出来事のために「主の祈り」があり、「その名(24:47)を唱える礼拝」があるのです。親鸞(歎異抄)が、念仏する行為に悔い改めというリアルを発見したように、「ナム(サンスクリット語でのエンパシー・尊敬)・アミダ(無限愛の名)」ならぬ「ナム・キリスト」、つまり「キリエ・エレイソン」は、「エンパシーするイエス様に私もエンパシーさせていただきます」と悔い改め(メタノイア)する祈り(ナム・キリスト)なのです。
 ルカ福音書は、「無関心病の私たち」に「イエス様がどうしてもあなたの隣人になりたいんだって。復活してやるって騒いでるよ、どうする?」と迫って、あなたが勇気ある者、分かち合う生き方(リアル)へと変わるよう招いています。その勇気(エンパシー)こそイエス様そのものであると気づかせるのです。どうする?