2024年4月7日 復活節第2主日(B年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「あなたがたに平和があるように。」

 今週の福音は、十字架の日から3日後、イエス様がご復活された日の夕方の出来事です。この日の朝、復活されたイエス様が墓の外で泣いていたマグダラのマリアにあらわれています。また、福音には彼女がイエス様を見たこと、またイエス様の話されたことを他の弟子たちに告げたと記されています。福音はこの後につづくお話です。流れから言えば、福音に出てくる弟子たちはこのマリアからの知らせを聞いていたと想像することも許されるでしょう。しかし、弟子たちはこのマリアの喜ぶべき知らせとは裏腹にびくびくしながら、戸に鍵を掛けて家に閉じこもっていました。
 そんな時です。鍵を掛けていたにも関わらず、いつとも知れずイエス様が弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように(シャローム・主の平和*安心して行きなさいの意味があります)」とやさしく語られます。そして、十字架で受けられた手と脇腹の傷を見せられたのです。「イエス様は、本当に甦られたのだ。」この瞬間、彼らの心はこれまでの恐れから喜びに変わりました。 
 イエス様が鍵の掛けられた部屋に入って来られた、そして、ご自分の手と脇腹の傷をお見せになった。福音記者ヨハネは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?それは、ご復活されたイエス様は弟子たちの願望が生み出した幻ではなかったこと、あるいは、私たち日本人がイメージするような実体のない幽霊のような存在でもない、たしかにイエス様であった・・・この真実を強調しているのだと思います。
 一方で福音記者ヨハネは、ご復活されたイエス様はこれまでと違って、鍵のかかった部屋にも自由自在に入ってこられる新しい体としてご復活された、この真実をも同時に伝えようとしているのではないでしょうか?
 さて、この時、彼らは部屋に鍵をかけて閉じこもっていましたが、彼らが鍵をかけて閉ざしていたのは実は、心だったのではないでしょうか?そして、彼らが恐れていたのはユダヤ人というよりむしろイエス様ではなかったのではないでしょうか?そしてイエス様とお会いしたというマリアの知らせにこの恐れはいっそう大きなものとなっていたのではないでしょうか?敬愛し、尽してきた先生、最後まで、たとえ殺されそうになってもついていきます、そう言っていたにも関わらず、逃げてしまった、裏切ってしまった自分たち・・・意思の弱さや死への恐怖、また愚かさのため先生を見捨ててしまったという深い罪の意識、脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かんでくるイエス様の幻、自分たちのことを憎み、恨んでいる恐ろしい面持をしたイエス様に怯えていたのではないでしょうか。まさにそんな時、彼らの真ん中にイエス様が現れた・・・しかし、意外にも自分たちを呪ったり、憎んだり責めるどころか、「安心して行きなさい」と言ってくださいました。そして、目の前のイエス様は十字架で受けられた傷のあるイエス様ではありませんか。この時です。閉ざされていた心が開かれます。恐れは安心に変りました。同時に彼らは気付いたはずです。
 イエス様の手と脇腹の傷は自分たちのためであったのだ・・・イエス様の傷は罪深い自分たちをも赦してくださる神様の慈しみであったことに気づいたのです・・・復活のイエス様は彼らに対し更に重ねて言われました。
 「あなたがたに平和があるように(安心して行きなさい)。」
 この後、弟子たちとイエス様と新しい関係が生まれます。これまではいつも後ろに従っていながらイエス様のことを理解できない弟子でしたが、この時を境に、イエス様が真の救い主(メシア)であることを理解できました。同時に、イエス様が十字架の後、必ず復活されること仰っていたことが目からウロコの落ちるように分かったのです。そして、この後イエス様のことを世に証ししていきます。
 ところで、復活の主が現れた時、ちょうどそこになくてイエス様に出会えなかったトマスが出て来ます。「疑い深いトマス」のニックネームで紹介されている弟子で、最後、イエス様から「見ないのに信じる者は幸いである」と諭されていることで、彼は信仰者として良くないお手本のように受け取られています。また、私たちもそのように額面通りに受け取っているように思います。つまり、イエス様は、わたしたちにトマスの様に見たから信じる者でなく、見ないでも信じることのできる者になりなさい、見ないで信じることのできる者こそ良い信仰者だ・・・私たちはイエス様がそのように語っているように思っていないでしょうか?
 しかし、果たしてそうなのでしょうか?決してそうではないと思います。と言いますのも疑い深いトマスは、決して不信仰な者でないからです。他の弟子たちが復活の主を信じたのは彼らがその時、部屋にいたからであり、その点彼らもイエス様を見たから信じたのです。トマスはたまたまその時いなかっただけです。だから全く他の弟子と同じです。むしろ、他の弟子以上にイエス様のことに熱心であったのかも知れません。だからイエス様が他の弟子たちだけに会ったことに嫉妬していた。手に釘の後を見、指を釘跡に入れて見なければ信じるものかと拗ねていたのです。しかし、イエス様は、トマスの所にも、鍵のかかった部屋の中にきてくださいました。そして、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいます。更に、傷の跡まで見せてくださいました。その瞬間、トマスは「わたしの主よ、私の神よ」と信仰を告白します。この時、彼の閉ざされていた心が開かれます。同時に恐れは安心に、疑いは確信に変わりました。そして、十字架の釘跡が決定的に彼を変えたのです。イエス様の傷が罪深い自分のためであったことに気づいたからです・・・その時、このような自分をも赦して下さる神様の大きな慈しみを見たのです。
 今日の福音の結びをご覧ください。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエス様は神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」イエス様の言葉は、今を生きる私たちのために語られた言葉なのです。
 最後、長い信仰生活の中で、わたしたちは時に、自分の心を閉ざしてしまうこともあります、神様に言えないような罪を犯してしまい、そのことで怯えてしまい、心に鍵を掛けてしまうことが人生の中にないでしょうか。トマスの様にすねてしまうこともあるかもしれません。
 しかし、イエス様はいつも自由自在に私たちの閉ざしている心にきてくださり、心を開こうとしてくださいます。そして、安心して行きなさいと赦し、慰め、励まそうと来てくださっています・・・復活のイエス様は、私たちがしんどくて起きあがれそうになくても再び起きあがらせて復活させてくださいます・・・今日もイエス様が真ん中に立ってくださっています。今週も私たちは安心して世に派遣されて行きましょう。