司祭 マタイ 古本靖久
恐ろしかった【マルコによる福音書16章1〜8節】
彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコによる福音書16章8節:聖書協会共同訳)
主のご復活、おめでとうございます。
世界のキリスト教では、復活日(イースター)が一番大きなお祭りですが、日本ではクリスマスの方がメジャーなようです。そこには大きく二つの理由があると思います。一つは、毎年復活日は日にちが変わるということ。つまりクリスマスのような決まった日ではないので、覚えにくいということです。そしてもう一つは、「復活」という出来事を身近に経験していないということ。「降誕」であれば、わたしたちは想像できます。お母さんのお腹がだんだん大きくなり、そこから「おぎゃあ」と赤ちゃんが誕生する場面と、イエス様のご降誕。時代や生まれた場所など違いはたくさんありますが、その出来事をわたしたちは身近に感じることができるのです。
ところが復活はどうでしょうか。どう説明したらよいのか分からないのが正直なところです。ゾンビ映画のようにお墓から手がニョキっと出てきて、というのでもなさそうです。
今年の復活日には、マルコによる福音書が読まれました。この場面、簡単にあらすじを書くとこのようになります。安息日が終わって3人の女性たちはイエス様に塗るための香料を買います。そして週の初めの日の朝、日が昇ると墓に行きます。墓に行くと、墓の入り口にあった非常に大きな石はわきへ転がしてありました。そこで墓に入ると白い長い衣を着た若者が座っていたので、女性たちはひどく驚きます。彼女たちに対し、その若者は言います。「驚くことはない。イエス様は復活なさってここにはおられない。弟子たちに『あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる』と言いなさい」。
さてそこで、女性たちはどうしたでしょうか。十字架の上で息を引き取ったはずのイエス様が、ご復活なさったのだ!その喜びに満たされて、弟子たちの元に戻ったでしょうか。「さあ、みんなで早く、ガリラヤに行きましょう!そこで復活のイエス様にお会いしましょう!」と伝えたでしょうか。
聖書は、このように書きます。「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。クリスマスの夜、羊飼いは神さまを賛美し、博士たちは贈り物を携えて東方からやって来ました。その場面と比べると、あまりにも「喜び」とはかけ離れた描写のように思えます。
2000年前の最初の復活日の朝、その目撃者は、「恐ろしかった」という感情を抱きます。それはこれまで自分が経験したことのない出来事を、目の当たりにしたからでしょう。「復活」という出来事を経験していないだけではありません。神さまが自分の元にも手を差し伸べて下さる、そのことを感じ、恐ろしさを覚えたのではないでしょうか。
さて、わたしたちにとって、イエス様の復活とは何なのでしょうか。
十字架の後の空の墓、わたしたちはそれを見ても、「そんなバカな」という思いしか抱かないかもしれません。しかし神さまは、わたしたちが信じる者となることを願っておられます。聖書はこれから、復活のイエス様との出会いの場面を描いていきます。そして神さまはわたしたち一人ひとりにも、復活のイエス様との出会いを用意しておられます。
神さまはわたしたちのために愛する独り子をこの世に遣わされ、十字架の死によってわたしたちの罪を贖われました。そしてわたしたち一人一人が歩んでいけるためにイエス様を死の中から起き上がらせ、わたしたちと出会わせてくださいます。
そのことを信じて、歩んでまいりましょう。復活のイエス様は、あなたと共におられます。
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