2024年3月24日 復活前主日(B年)

 

司祭 エレナ 古本みさ

「こんな私のために」【マルコ14:32−15:47】

 復活前主日は「棕櫚(しゅろ)の日曜日」と呼ばれ、多くの教会では、この日に棕櫚の葉でできた十字架を配ります。それは、主イエスが十字架にかけられるちょうど一週間前にエルサレムへ入城した出来事を記念するためです。ガリラヤから長い旅を経て神殿のあるエルサレムへ入られたとき、町は歓喜に湧きました。主が来られた!万歳!と口々に叫び、自分たちの来ている上着を地面に敷き、棕櫚の葉を振りながらイエスを出迎えたのです。そのことを覚えて、葉っぱを十字架の形に折りたたんだものを私たちは持ち帰るのですが、その棕櫚は、1週間、2週間と時が経つうちにやがて茶色くなり、細くなって、枯れていきます。霧吹きで水をかけたり、冷蔵庫へ入れたり、あるいはラミネートをしたりして緑を保とうとしても、今日のこの美しい姿を永遠に保ち続けるのは不可能です。今朝はその棕櫚の葉の姿に、今から二千年前に起こった主イエスの受難物語を通して、私たち自身を重ね合わせてみたいと思います。
 物語は、ゲツセマネから始まります。主イエスが血の汗を流さんばかりに祈っている間、そばにいてほしいと連れてこられた弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは眠ってしまいました。恐怖のただ中にあって死ぬばかりに悲しいともだえる自分たちの先生を前に、かれらは一時さえも起きていることが出来ませんでした。苦しむ人の隣で思考を停止させ、状況をシャットアウトし、心から共感できない弱い人間がいる。それはこの私です。
 イエスに弟子として選ばれ、寝食を共にし、奇跡を目の当たりにし、神の国の教えを聞き、主と共に笑い、共に泣いていたユダ。彼はある日突然イエスを裏切り、逮捕の合図として、「先生」と呼んで接吻の挨拶をしました。こんな恐ろしいことが出来てしまう人間がいます。それはこの私です。
 逮捕の瞬間に居合わせた弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいました。普段調子のいいこと言いながら、いざとなったら走って逃げる卑怯者がいます。それはこの私です。
 奇妙な記述があります。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」この亜麻布とは何なのでしょう? 若者は何を脱ぎ捨てたのでしょう。神さまと共にいるときにいつも身にまとっていた真っ白な亜麻布。聖公会の伝統では、聖職は黒のキャソックの上に白のサープリスを身に着けます。本来の意味は分かりませんが、牧師であった私の父はよく、その恰好をするときに白い布をまとっても、自分の心は真っ黒い罪深い人間であることを思わされると話していました。神さまからいただいた一番大切なものさえも、自分の身を守るために脱ぎ捨ててしまう臆病者の人間がいます。それはこの私です。
 一番弟子であったペトロは、主が言われた通り、鶏が二度鳴く前に、三度イエスを知らないと否定しました。ほんの数日前にはあんなに威勢を張って、「何があろうとわたしはあなたにどこまでもついて行きます!」と宣言していたにもかかわらず。鶏の鳴き声を聞き、ペトロは泣き崩れました。嘘をつくこと、イエスの教えに目を背け、ついつい真逆のことをしてしまう人間がいます。それはこの私です。
 そして、何とか助けてあげられないものかと考える総督ピラトの前で激しく「十字架につけろ」と叫び続けた群衆、彼らはまぎれもなく、たった一週間前に「主が来られた、万歳!」と棕櫚の葉を振ってイエスを歓迎した同じ群衆でした。自分の願いが思うように叶えられず、自分の頭で期待していた神ではなかったと絶望し、もう信じるのはやめよう、聖書なんて意味がない、そう思って祈ることをやめてしまう傲慢な人間がいます。それはこの私です。
 私たち一人ひとりは、ほうっておけば枯れていく棕櫚の葉です。そんな弱くて、どうしようもなく情けない私のために、そしてあなたのために、主イエスはひとり、ただひとり十字架にかかってくださいました。信頼していた友に裏切られ、見捨てられ、神にさえも見放されたと思わずにはおれない寂しさ、苦しみ、痛みを一身に引き受けられたのです。でもそれは私たちに、二度と枯れない永遠の緑のいのちを与えるためでした。十字架上で死なれたイエス様は、神さまの約束通りに3日目によみがえられるのです。イエスの十字架が一本の橋となって、私たちを神さまのもとへ渡らせてくれるのです。
 今日から聖週と呼ばれる一週間が始まります。とことん自分の弱さを見つめ、それを受け入れた後は、大丈夫だよ、そのままでいいんだよ、私はあなたを愛していると言ってくださる神さまの声を聴きましょう。その時私たちは新しく生まれ変わります。