2024年2月25日 大斎節第2主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 荒木太一

愛を背負う「自分の十字架を背負って」【マルコ福音書第8章34節】

 世間一般に「十字架を背負う」とは「一生消えない罪を背負う」という意味です。しかしキリスト教では罪を背負うのは神さまです。ですからこれは十字架で罪を消し去った神さまの「愛を背負う」という意味になります。
 十字架の愛とは、神さまがご自分の命を犠牲として差し出し、私たちの罪を引き受けて死なれたことです。この愛の犠牲によって私たちの罪は消され、罪の定めも責めももはや私たちは背負わなくて良くなったのです。
 自らを犠牲にする愛。これが現れたのが、アブラハムが息子イサクを惜しまず献げようとした場面です。これは神さまの愛の譬えです。(創世記22章)
 またパウロは神さまを「御子をさえ惜しまず死に渡された方」と呼びます。(ローマ8:32) これは決して「父が人類の救いのために息子を殺した」ということではありません。人間と違い、父なる神は御子と同一です。御子は父の第二の自分、自分自身です。神さまがご自分を犠牲にして罪を背負い、担い、引き受けて死に、罪と死を消し去り、そして復活して命を与えられたのです。
 この愛の犠牲が「神のことを思う」イエスさまの心です。そしてこの愛の犠牲を受け入れないのが「人のことを思う」私たちの思いです。(マルコ8:33)
 私たちの罪を消し去るためにご自分の命を犠牲にされたイエスさま。この方が復活して今も生きておられます。この愛の犠牲を受け入れ、感謝し、赦された罪を悔い改め、この人の愛に応えて生きること。それが「十字架を背負う」ことです。死の苦しみにも罪にも負けず、自分のために死んでくださった神さまの愛を、自分なりに精一杯生きることです。
 とは言っても神さまの愛を背負うことは、決して重荷ではありません。旅路を軽やかにする感謝と喜びの手土産です。なぜなら神さまの愛こそが私たちを背負ってくださっているからです。私たちは愛に背負われつつ、愛を背負い、上からも下からも神さまの愛に守られて、命の旅路を歩むのです。神さまの荷は軽いのです。(マタイ11:30)
 神さまは言われます。「わたしはあなたを背負う。だからあなたもわたしの愛を背負い、わたしに従いなさい。」