2024年1月14日 顕現後第2主日(B年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「イエスの弟子になる」

 ヨハネによる福音書の弟子の召し出しの物語は、共観福音書とは趣が違います。今日の福音書はフィリポとナタナエルがイエスの弟子になるお話です。フィリポは、他の福音書にも登場し、12弟子の1人に名前が挙げられる弟子ですが、ナタナエルは他の福音書にも全く登場せず、12弟子のリストにも含まれません。このことから、ヨハネ福音書における「弟子の資格」は、12弟子という集団として定義していないことが言えると思います。さらには弟子たちの職業も書かれず、何かを放棄して弟子としてイエスに従った、とも書かれていません。
 イエスから「わたしに従いなさい」と言われたフィリポは、ナタナエルに出会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言いました。「従いなさい」と言われたフィリポは、「はい」とも「いいえ」とも言わず、直ぐにナタナエルにイエスのことを告白します。それを聞いたナタナエルは「ナザレから何かよいものが出るだろうか」とフィリポの言葉を疑いました。
 ナタナエルは、律法を熱心に学んだ人でしたので、旧約聖書の預言には「ナザレ」などという場所は書かれていないということを知っていたのでしょう。ところが、「来て、見なさい」というフィリポに従って、イエスの方に近づくとイエスの方からナタナエルに「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と語りかけられ、その言葉をきっかけに「あなたは神の子」「あなたはイスラエルの王」と告白したのでした。ナタナエルは、イエスの方へ「行き、見る」ことによってイエスを神の子と告白する信仰に至ったのです。
 信仰告白をする、ということは自ずからこれまでの価値観の転換を余儀なくされます。「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と言っていたナタナエルの思いは、イエスに出会うことによって転換せざるを得なくなりました。その価値観の転換によって、ナタナエルは「もっと偉大なことを見ることになる」とイエスに告げられたのでした。
 一つの価値観、これまでの価値観にとらわれている時、わたしたちはその領域から出られず、実はとても不自由な生き方をしているのかもしれません。思い込みから少し解放されるとさらに広く深い何かが見えてくるのかもしれません。ヨハネによる福音書の弟子の召し出しには、職業を捨てることも家族を捨てることもその条件にはなっていません。ヨハネにおける弟子の条件は、「見て、信じる」こと。「見て、信じる」ことによって、これまでの価値観から変えられ、イエスと共に生きることの証となっていったのです。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)イエスの弟子であるわたしたちは、イエスに積極的に関わり、イエスに留まるものでありたいと思います。