2024年1月7日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(B年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

 今日は顕現後第1主日、そして主イエス洗礼の日です。その名の通り、本日の福音書(マルコ1:7−10)はイエスさまの洗礼の場面が描かれています。毎年この主日には「洗礼の場面」が描かれていますが、イエスさまが「水の中から上がるとすぐ」(マルコ1:10)と記されています。
 さて、この「すぐに」という言葉から連想する聖書の場面があります。それは弟子たちが召し出されるときのことです。四人の漁師たちが最初の弟子になったのですが、主の呼びかけに対して最初の二人は「すぐに網を捨てて従い」(マルコ1:18) 次の二人もすぐに舟を残してイエスに従った場面です。
 福音書にあるイエスさまが「水から上がる」という動きそのものが「救い」を象徴していると言われます。水に浸かることが「今までの古い自分に死ぬ」ことを表しているとすれば、水から上がるとは「古い自分を脱ぎ捨てて新しく歩みだす」ことを表しています。水に浸かったままでは、自分の目指していることがら、こうありたいと願っている事柄の半分で終わってしまうことになりかねません。
 思い返せば、私自身「聖職」になる決断をするまで、迷っていた期間がありました。「三代目という重圧」、「父親を越えていくことへの不安」、でも最終的には「後で後悔するよりも今、決断した方が良い・・」そんな言葉に後を押されて、志願していったように思います。
 私たちは困難に遭遇したとき、いち早くそこから抜け出たいと願います。同時に抜け出せないでいる自分の姿を思い知らされることもあります。
 しかし、「神さまに生かされる」とは、苦悩する海から、ただちに引き上げられていくことを意味しています。イエスさまは私たちに先立って、身をもってわたしたちにそのことを示してくださいました。それは「すぐに水の中から上がっておいで」という招きでありました。
 古い1年が過ぎ去り、新しい1年が始まりました。この1年の歩みが、ただ敷かれたレールの上を走るということに留まらず、私たち自身が新しく決断していくというもう一つの大切なことがらの両方があってこそ、力強さが増していきます。
 これからの歩みの上に「今日、耳にしたみ言葉」が生かされていきますように。