司祭 サムエル 奥 晋一郎
み心を受け止め祈りながらクリスマスを過ごす【ルカ1:26−38】
この日の福音書は「イエスの誕生が予告される」の箇所、昔の言い方で言えば受胎告知の箇所です。マリアが天使ガブリエルにイエスさまの誕生を告げている箇所です。この箇所はレオナルド・ダ・ビンチ、エル・グレコなど多くの有名な画家の絵画が存在します。キリスト教の幼稚園や学校で、聖劇、ページェントでは必ず登場する箇所です。
マリアにはヨセフという、いいなずけがいました。そのマリアに対して、天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」と言います。マリアは戸惑い、考え込んでしまいます。それに対して、ガブリエルは「恐れることはない」と言い、さらに生まれてくる子どもにイエスと名付けなさいと言います。それに対して、マリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えます。ガブリエルはマリアに、聖霊によって、すなわち人間の目には見えない神様の力によって、マリアが身ごもること、また身ごもった子は聖なる者、神様の子と呼ばれると言います。また、この出来事の前の6か月前に、マリアの親戚のエリザベトも高齢であるのに、子どもを身ごもっていることを伝え、神様に出来ないことは何一つないことを告げます。このガブリエルの話を聞き、マリアは決心し「わたしは主の仕え女(つかえめ)です。お言葉どおり、この身になりますように」、と答え、イエスさま誕生の予告を受け入れました。
今日は29節に登場する「考え込む」という言葉に注目します。考え込む時は、どうしたらいいか悩む時です。さまざまなことを考え、思いめぐらします。そして、このことは本当だろうか、そんなことがあるだろうか、と疑いを持ってしまうこともあります。きっとマリアもガブリエルからイエスさまの誕生を告げられた時、悩んだことでしょう。聖書の箇所は文章ですので、わずかな時間のように思いますが、実際はもっと時間をかけて考えていたのかもしれません。マリアはナザレというユダヤ北部の町出身の女性です。当時のユダヤの国の首都であるエルサレムと比べるとはるかに田舎です。田舎出身の身分の低い人の娘でした。それまで、何か立派な行いをしたわけでもありません。有名人でもありません。大自然の田舎で家族と生活をしていた普通の女性、娘です。そして、ヨセフという、いいなずけと結婚して、一緒に生活をしようとしていました。その時に突然、天使ガブリエルが現れて、神様の子を産むと言われました。マリアはイエスさまの誕生のことを言われた時は、おめでとうではなく、「どうして」という思いであったことでしょう。思い描いていたことと違う出来事が突然、発生しました。しかし、マリアはガブリエルの言葉を聞くうちに疑いも消え去り、「お言葉どおり、この身になりますように」とガブリエルの言葉を受け入れました。すなわち神様が行う、イエスさまの誕生を受け入れました。ガブリエルが言った、「おめでとう」という言葉を受け入れました。マリアは自分の考え、疑い、戸惑いに固執するのではなく、天使を通して語られる神様の言葉を受け入れ、疑いや戸惑いが消えて、主の仕え女(つかえめ)、神様の召し使い、神様に役に立つ行いをする者として過ごしました。そして、そして全ての人の救い主として、イエスさまがこの世に誕生しました。
このマリアへの呼びかけこれは単に2000年ほど前の昔話で終わるものではありません。これは現在生きる私たち一人ひとりに語られている話です。もちろん、わたしたちはマリアと同じ出来事に遭遇することはありません。しかし、わたしたちは当初予定した自分が思い描いていたことと違う出来事に遭遇することは、あると思います。突然、自分の思いをはるかに超えた出来事に遭遇した時、戸惑うことがあると思います。そんな中にあっても、神様はわたしたち、一人ひとりを神様の思いの中で担わせてくださいます。戸惑いつつも、どうして私が、と思いながらも、本日の福音書に登場するマリアのように、考え込んで、神様の思い、み心を受け止めて、「この身になりますように」、神様の役に立つ行いができますよう、人の役に立つ行いができますようにと祈って、これからの日々、クリスマスのシーズンを過ごしていきたいと思います。
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