司祭 プリスカ 中尾貢三子
今週は、ヨハネによる福音書が用いられます。イエスさまが自分より後にやってくる光であることを指し示した洗礼者ヨハネのことが描かれています。
文章でははっきりと「この人は光について証しするため、またすべての人が彼によって信じるようになるために来た」と、洗礼者ヨハネ自身の役割をはっきりと言い表しています。
エルサレムから遣わされた人々とヨハネとの対話の中から、彼が自分のことを表現した言葉を見てみます。
「あなたは誰ですか」「メシアではない」、「エリヤですか」「わたしではない」、「あの預言者ですか」「ない」。モーセのような預言者が再び現れ、困難をすべて解決して救ってくださるのだと一般に信じられていたようです。
しかしヨハネはメシアとよばれるような存在でもモーセやエリヤのような過去の預言者の再来ではないと言います。彼自身は救い主でもなんでもなく、あとから来られる光を指さす存在であると言い表しました。彼は自分自身をさして、荒れ野で叫ぶ声、預言者イザヤのいう「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声であると言うのです。
自分が何者かはっきり示した洗礼者ヨハネに対して、ファリサイ派の人々は、重ねて、洗礼を授ける理由を尋ねました。それは洗礼を施す権威についての質問でした。メシアでもなく、エリヤやモーセの再来のような偉大な預言者でもないヨハネがなぜ洗礼を授けるのか。何の権威に基づく洗礼なのか。ヨハネの洗礼の意味を、ファリサイ派の人々が自分たちの価値観の中で位置づけるための問いでした。しかしヨハネは次のように答えました。
「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、私はその履物の紐を解く資格もない。」
ここでいう「知らない方」で用いられる「知る」という言葉には、誰かを知っている、知識としてそういう人がいると言うことを知っている以上の意味がありました。後から来られる方が救い主であるということをヨハネは実感として知り、その方のことを見ていたのです。
ヨハネやイエスさまが生きた時代、ユダヤ人はローマの支配に苦しみ、困難の多い時でした。困難が増すにつれて目の前の困難を一気に解決してくれる「救い主」を待ち望むようになっていきました。
洗礼者ヨハネは、そのような政治的・経済的な解決者としての救い主の到来を否定しました。彼自身も後から来られる方もそのような存在ではない、と言い切ったのです。
困難な時、人は「力のある人物」の登場と、その人物がすべてを解決してくれることを期待します。「力ある人物」を救い主として祭り上げてしまうのです。これは「偶像崇拝」に他なりません。それは神でない「人間」を神として崇め奉ってしまうことになるのです。そのような誤りを人間は犯しやすいものであることを、洗礼者ヨハネと律法学者やファリサイ派の人々とのやり取りを通して警告し、真の救い主を指し示そうとしたのではないでしょうか。
イエスさまの到来を、ヨハネ福音書1章5節では「光は闇の中で輝いている」と現在も輝き続けていることを言い表しています。光は神の光であって、イエスさまご自身をあがめることではないのです。イエスさまという光がこの世界に訪れるための道備えが洗礼者ヨハネの役割であるとすれば、イエスさまは神様ご自身へと人々が向きを変えるために私たちのもとへやって来られた光にほかなりませんでした。だれが一人がすべての困難や問題を解決するのではなく、神様の方へ向きを変えられた人々一人ひとりが、神様の光の中で自らの生き方を変えていくこと。それが結果として世界の困難や混乱を解きほぐし、つないでいくことへとつながります。
イエスさまの誕生を待ち望む最後の一週間、私たちがどう生きるのか、何を待ち望み、どう生き方を整えるのか。改めて考え、私たち自身を整えていくことができますように。
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