2023年12月3日 降臨節第1主日(B年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「光の到来を待ち望む」
【イザヤ63:19〜64:8,コリント第一1:1〜9,マルコ13:33〜37】

  今日から降臨節、教会の暦では新しい1年の始まりです。降臨節(アドベント)は、神の子キリストがこの世に来られるのを待ち望む期節。私たちはクリスマスを迎える準備を始めます。しかし、今日の聖書日課はイエス・キリストの誕生とは直接関係ない箇所になっています。降臨節には2つのテーマがあり、神の子・キリストがみどり児としてこの世に来られたことを記念するクリスマスを待つことと、もう一つ、この世の終わりの時にキリストが再臨されるのを待ち望む、というテーマです。降臨節第1主日の日課には、毎年この第2の降臨のテーマの箇所が選ばれています。いづれにしても、この世の光として来られる主なる神を「待つ」期節です。
 光の到来を待つ。皆さんは、具体的に闇の中から光が出てくるのをじっと待っていた、という経験があるでしょうか。私はある日、朝日が出てくるのをひたすら待っている人たちをみかけました。朝早く、紅葉した永観堂や南禅寺を見回しながら歩いていた時に、南禅寺の門の西側に二十人ほどの人たちがずらりとカメラを脚立にのせて空をみつめていたのです。おそらく、朝日に輝く紅葉と寺の門を同時に写すのにベストのアングルなのでしょう。それで、その人たちの少し横に立ってどんなふうに見えるのか見てみました。しかし、私が見ると、門は逆光で暗く、紅葉は少ししか入らないので、すごくいい写真がとれるアングルとは思えませんでした。少しがっかりしていると、ちょうど太陽が東の山から出てきて、明るい光が少し差し込んできました。するとその時、シャカシャカシャカっとシャッターを切る音がします。誰も何もしゃべらずに、一斉にカメラをのぞいてこの時を逃すまいという感じでシャッターを切っているのです。
 この人たちは、この瞬間のために、長い時間をかけて準備をし、早起きをしてカメラの道具をかついでやってきて、いい写真をとるためにいろいろと準備をしてきたのだなあ、と感心しました。けれど、私はと言えば、カメラを持っていないだけでなく、同じ場所に立って同じ風景を見ていても、それがすばらしい写真がとれる瞬間だということを、その方々と共感することもできなかったのです。私はかなりがっかりしました。私は朝日を待ち望んでいた人たちが感じる喜びの一端でもいいから、感じたかったのです。でも、だめでした。私はその人たちとは違って、その日のその時の朝日の光を待ち望む備えが、全くできていなかったのです。
 キリストの再臨の出来事も、少し似たところがあるのではないでしょうか。キリストがこの世に来られるという出来事は、神様のわざであって、私たちはただそれをひたすら待ち望むしかありません。しかし、その時をただ何となく待つだけで心の備えができていなければ、そのすばらしい光を理解し、喜びを感じることはできません。
 パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、キリストの再臨を待つ人々に語りかけています。
 「あなたがたは、賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に非のうちどころのない者にしてくださいます。」 (コリント第一、1:7〜8)
 この世の光の到来のすばらしさを知る者こそが、光を迎える備えをすることができます。わたしたちの主イエス・キリストがその道を導いてくださるからです。私たちの主が来られるその時を、喜びをもって待ち望みしょう。