司祭 アンデレ 松山健作
「隣人に仕える力はキリストとの交わりによる」
【マタイによる福音書25章31節から46節】
わたしたちの生きる世の中は、状況に応じて良いものと悪いものを選り分ける習性にあるだろうと思います。その選択には、それぞれの価値や思想が反映される場合もあれば、議論や協議が必要な場合もあります。
何らかの共同体や組織において選択を迫られるとき、わたしたちは自己が正しいと思う論理を説きながら相手を説得し、「良い」と思われる方向へと導こうと試みます。いろんな意見が出る中でもっとも「正論」であるという主張が支持を得ていきます。
しかし、みなさんも経験したことがあるかもしれません。その「正論」と思った事柄は、ある時代のある状況においては、「正論」であったかもしれませんが、時代状況の変化によってかつての「正論」は良いものではなくなっていたという時があります。つまり、わたしたち人間から出てきた「正論」は普遍性に乏しく、ときにその内容は自分の利益を中心に考えられた事柄であったからかもしれません。
マタイによる福音書25章31節以下では、全世界の民に福音が宣べ伝えられた後に、人の子が到来して裁きを行うことがテーマとなっています。人の子が天使を携え栄光の座につく王が裁きを行うイメージが描写されています。集められた民は、右には祝福された民、左には呪われた民が集められ、その理由が述べられます。
祝福された民は、飢え渇く人びとに対して憐れみ行動した民であり、呪われた民は飢え渇く人びとに施しを行わず、同情もしなかった民であることが理由となっています。救いと裁きのはざまにおいて、もしこの世を生きるわたしたちの行動が起因するなら、ある人は救われるために右側の民と同様の施しをするために行動を起こすかもしれません。しかし、そのような行動は救いのために行動する偽善であり、隣人のいない隣人愛であり、神のいない神への愛になりかねません。それは自分のために正しいことを行うことであり、自分のために「正論」と説いているに過ぎないのでしょう。
祝福された民の特徴は、呪われた民の逆の方向へと歩んだ人びとを指しています。自分の利益のためではなく、純粋に隣人に同情し、憐れむ心によって行動したことが祝福を受ける結果となりました。苦しむ「小さい者」への配慮は、救いを当てにした投資ではありません。すでに神さまが与えられた救いをこの世に要求していく行為なのです。
呪われた民は、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」(44節)と反論します。しかし、これは主従関係に基づいて仕えることであり、自らの利潤関係によって行動した呪われた民の姿を描いています。
人の子キリストは、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(20:28)というイエス・キリストがわたしたちのために仕え十字架にかかられたということに信頼を置く時、隣人に対するわたしたちの行動が仕える者として変えられ、祝福される民へと行動する原動力に変化するのではないでしょうか。その働きを成すとき、わたしたちはキリストとの交わりを享受しているといえるのかもしれません。
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