2023年10月29日 聖霊降臨後第22主日(A年)

 

司祭 パウロ 北山和民

「私たちにも隣人のしもべ(尊敬し理解する人)となる心(エンパシー)をお与えください」(特定25特祷より)

 「寄留者(死にそうな難民)を虐待してはならない。なぜならあなたがたもエジプトの地で寄留者(難民)だったから。如何なる寡婦(不安で死にそうな女性)も孤児(ケアの必要な子ども)も苦しめてはならない。」と神が言う(出エジプト22章20以下)のだから聞かないふりはできないけど…
 …では(マタイ23章のように)「先生がきれいな聖杯で聖餐式をし、平和の歌をみんなで麗しく歌い祈り、白く塗った墓での記念の祈りを見せるために心を尽くし…祈っているから献金しないよ」と言う…ことが、紛争、今日の「社会事業のために祈る日」の礼拝になるのだろうか。
 本日の福音は「隣人を愛する。自分を愛するように」は律法の核であり、この終末ではイエス様のことなのだと強調している。それはイエス様のあわれみ(エンパシー・隣人の靴を履く経験・尊敬し愛する)の物語が私たちの現実になるならないは、わたしたちには命を失うか生きるかほどの重要課題であると言うことです。つまりイエスの福音・聖餐式とは「わたしのたとえ話を聞いてわたしをあなたの隣人にしてくれ! わたしは今ガザにいる。探してくれ!」と迫ってくること。そして聞く(礼拝)なら、「囚われているあなたもわたしの秘密(聖霊)に触れるぞ」、例えばもし、あなたが今のニュースを見て「あの空爆に悲しみ怒る○○と自分は、イエス様と似ているような気がする」と自分だけの気づきをもつことができたなら、それは悲惨の中に苦しむ者達だけが到達し得る共感(エンパシー)こそイエス様であるということです。そして、○○を拝むような感覚を持つなら、あなたは「祈り」という自由(自尊感)を発見し、隣人を自分のように愛するのです。イエス様を知るとは、拝み崇めるためではなく、終末論を生きる(哲学)こと、即ち保身を捨て誠実に生きる試練を考え続けることだとマタイ福音書は言う。この現実社会の破れの中でこの現場で、虚栄に打ち勝ち他者と共感経験(尊厳感)を持てるかどうか、イエス様の「大いなる物語」を実現する勇気が試されているのです。わたしたちが「社会事業」の現場に召されたのは、「隣人になり祈り合う」ためです。そして紛争や悲惨の絶えない今日の世界にもかかわらず、また見て見ぬふりの偽善に満ちたコイノニアであるにもかかわらず、今日この福音が届けられている、この神秘に思いを潜めるためなのです。