2023年10月15日 聖霊降臨後第20主日(A年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「礼服を着るとは、神様の招きに喜び応えること」

 先週末は、地元のお祭りが盛大に行われました。お祭りは、みんな本当に楽しそうです。皆、しかつめらしい顔はしていません。お祭りと言えば、宗教・習俗を問わず、神様の恵みに感謝し、大いに喜びます。私たちも毎主日、礼拝で祭りを行っていますが、同じです、ということで、福音のキーワードは喜びにあるのではないでしょうか? 今週の福音は、王子の婚宴のたとえ。イエス様は何を問うておられるのでしょうか?王は神様のことです。この神様が、王子のために婚宴を準備し、人々に来るように言われた。しかし、来ない人々がいた。すると王は立腹し、軍隊を送り人殺しどもを滅ぼし、街を焼き払います。この後、話が続きます。王は僕たちを遣わし、片っ端から人々を宴席に送った。ところが、たった一人だけ礼服を着けていない人がいた。その人は暗闇に放り出された。厳しい話です。
 イエス様はなぜこのような問いかけをされたのでしょうか?「友よ、どうしてあなたは礼服を着ないで、ここに入って来たのか。明らかにこの言葉にイエス様の問いの核心があるように思います。礼服を着ていないことが問題なのです。イエス様はこの時、神殿におられました。詩篇の中に、神殿は祭司たちが、神の与えてくださった義と救いをまとい、冠を付けて仕えている場所と歌われています、このことから推察するにイエス様は、彼らに、あなたたちは神が与えてくださった礼服をどこに置いてきたのか、そう問いかけておられるように思います。
 当時の宗教指導者たちは、本来神様の恵みである律法を離れ、自分すら守れない戒めを人々に言うだけ、また政治権力と結びついて、立場の保身ばかりを求めていました。神様の義を伝えず、救いを語ることもなく、しかつめらしい顔で、あれもこれも駄目と恵みの喜びを人々に語らない…そこをイエス様は厳しく言われたのです。その後、彼らは沈黙します。
 ところで、礼服は、普通、黒い服を1着作ると、ネクタイや飾り物を変えることで、婚宴(喜び)の礼服にも、お葬式(悲しみ)の礼服にもなります。
 しかし、ここでイエス様の語られている礼服は、他に用いられない、婚宴の喜びに与かるためだけに用いられる礼服の意味です。では、この礼服は何を意味するのでしょうか?
 福音のテーマは、王様の招き、神様の招きです。大切なのは、「この婚宴に招いておいた人々を呼ばせた」とあるように、招きはいま始まったのではなく、すでに始まっていたということです。このたとえは、当時のイスラエルの慣習が反映されています。まだ日取りも決まっていない時から、婚宴の際はどうぞ出席ください、分かりましたという応答があって初めて準備が始まります。これは、ある意味、神様と私たちの間で起こっている救いの歴史と言えないでしょうか?神様は、最初の時から人を招き続けておられる、予め婚宴の喜びに招いていてくださる。神様が私どもを救ってくださるという喜びの福音は、神様から招いてくださっているという喜びからくるものです。因みに、「招く」という言葉は原語で、「その名前で呼ぶ」の意味があります。だから、この招きは、宛名無しの、どなた様でもどうぞというような招待状ではありません。個人の宛名で書かれた招待状です。あなたにぜひとも来ていただきたい、そのような意味での招待状なのです・・・
 そこにイエス・キリストが私たちの世界に宿ってくださった、神のみ子が、一人の人間になってくださった意味があるのではないでしょうか?天の高い所まで来なさいではなく、神様の所に来るように私たちの所まで呼びに来てくださった・・・そのように考えると信じるとは自分が呼ばれている時、寝そべっているのではなく、大喜びでハイと返事をし、姿勢を正して応えていく、そのような神様との応答と言えるかもしれません。
 たとえに戻りますが、イエス様の問いかけを祭司長たちは無視しました。また、「人々はそれを無視し」ともあります。なぜなら、畑仕事や商売の営みに忙しくて王子の婚宴に心向かなかったからです。さらに、王様からの招待を迷惑に思う人々もいました。だから、家来たちを捕まえて殺したのです。どうして?と私たちは思いますが、これは歴史的な事実です。多くの預言者たち、また洗礼者ヨハネも殺されました。さらにはここで話しておられたイエス様も十字架で死なれることになります。なぜ?それは、イエス様が神様の愛を伝えられたからです。例えば、「サマリア人のたとえ」に示された愛を語られたからです。このような愛にもとづく喜びを伝えたからです。強盗に襲われて傷ついた旅人が道端に倒れていた。時の指導者たちは、その傍らを素通りし、見て見ぬふりをした、一方、ユダヤ人と敵対していたサマリア人が助けて介抱してくれた。このような話を彼らが受け入れたならば、自分たちの立場が根本的に脅かされるからです。だから無視した。あるいは、邪魔者として殺してしまうしかなかったのです。では、いまの私たちは、このイエス様の問いかけを、関係ない、他人事と割り切ることができるでしょうか、実は私たち自身でさえ、神様の言葉を無視していることがないでしょうか。「サマリア人のたとえ」でありませんが、私たちは生活でいつもこの言葉に従って生きていると言い切れるでしょうか?正直、私自身は、そうではない、恥ずかしい自分がいます。
 いま世界で起こっている様々な問題もそこにあるように思います。人間は、神様に造られた尊い存在で、人を愛することがどれほど大切かを知っています。
 しかし、現実、戦争でさえも時に正当化してしまいます。いま、私たちの世界は、イエス様の語られた愛や喜びで支配されているのではない、むしろ真逆のような力によって支配されたり、私たち自身もイエス様の言葉を生活の中で往々にして押し殺し、世の論理で生きている、それが現実ではないでしょうか?
 しかし、忘れてはならないこと、それは、神様がいまも王様の子、王子の宴席にこの世の善・悪は問わず、全ての人を招き集めておられるということです。その時、王にとって大事なこと、それは礼服を身につけていることです。
 礼服とはただ王子の婚宴という喜びの席にふさわしい装いを身につけることです。高価であったり、華やかでなくても良い、婚宴の席にふさわしい心と姿勢です。それは心からの喜びを表すことだと思います。最後、このイエス様の問いかけは、決して難しいものではない、実に単純なことなのかもしれません。