司祭 ヨハネ 石塚秀司
「神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。」【マタイによる福音書第21章33−43節】
実りの秋を迎えています。以前関わりのあった、幼稚園の子どもたちが、秋の日にお芋掘りに行きました。いつもは大きなサツマイモが連なって出てくる程の大収穫ですが、その年は、山から猿や鹿や猪までがやってきて、大きくなった芋の殆どが食い荒らされてしまって、小さなやせ細った芋ばかりで、例年の三分の一ぐらいの収穫しかなかったということがありました。自然の畑で作物を育てるということは、順調な時ばかりではなく不作の時もあることを身をもって体験する事ができました。
汗水流して土を耕し、豊かな実りへの期待を込めて種や苗を植えて、毎日天候を気にしながら、雑草や害虫、動物の被害から作物を守ろうと柵や作業小屋を建てて懸命にお世話をする。大変な作業です。ところが、そうして苦労して育てたのに、スコップや鍬で何度、土を起こしても大きく成長したサツマイモがなかなか出てこない期待に反して、全くの不作だったとしたら、その失望は大きいです。
この期待外れの経験は農作業に限らず、仕事やプライベイトでも何かに取り組み始めて、こうなるであろうという夢を持って一生懸命打ち込んだけれども、その結果は期待とは程遠いもので落胆するという経験はよくあることです。期待と愛着、こだわりが大きければ大きいほどその失意の感情は大きい。猿や鹿・猪に恨みを抱いて仕返しする園児はいませんが、大収穫を見込める土地や自然をまた、人の物を我が物のように国家権力を利用して、そこに住む住民までも支配しようとする恐ろしい現実を私たちは無視することはできません。
そして、ぶどう園での譬え話でマタイ福音書は私たちに警告しています。
ぶどう園の主人である神様は諦めなかった。忍耐を持って、僕にたとえられる預言者を遣わすが、当時のイスラエルの指導者たちと読み替えられる農夫たちは、利益のために次々に僕を殺害する。そして、さらに神様は一人子イエス・キリストを世に送られた。的外れな生き方をする私たち人間を、何とかして元に戻そう、立ち帰らせようとして、人間の歴史に働きかけておられる救いの出来事を伝えようとしています。ところが、そのことが全々見えない、また見ようともしない人々によって、さらに、自分の願望・利益をひたすら追い求めようとする人たちによって、神様の一人子イエス様の命をさえ奪ってしまう。この人間の強欲さ、罪深さ。そのことによって、私たち人間同士も、いかに、お互いに傷つけあい、命を奪い合い、流血が絶えない事実を作り出していることか。神様の恵みの中に生かされていることを忘れて、神様の期待と程遠い、的を外れた現実を作り出している人間の罪の現実です。
預言者イザヤも旧約聖書イザヤ書5章1節以下で語っています。「彼は畑を掘り起こし、石を取り除き 良いぶどうを植えた。また、畑の中央に見張りのやぐらを建て 搾り場を掘った。彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。主は公正を待ち望んだのに そこには、流血。正義を待ち望んだのに そこには、叫び。」
神様はこの世界を創造されて「よし」とされました。よい実が実るはずだった。ところが、その後の人類の歩みはどうだったか。今現在、この世界はどうなっているだろうか。先週の福音書で、ぶどう園に行って働きなさいと言われた。それは何のために、ぶどうの木にぶどうの実が豊かに実るための働きのためです。同じように、神様は私たち人間がこの世界で神様の命の実、愛の命の実を実らせることを期待しておられます。そして、そのような私たちすべての人に、神の国への導きを与えてくださっているのです。
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