2023年10月1日 聖霊降臨後第18主日(A年)

 

司祭 マタイ 古本靖久

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。(マタイによる福音書21章31節)

 今日の福音書には、兄と弟という二人の人物が出てきます。そして二人が取った行動は、それぞれ違います。わたしたちはこの物語から、どんなメッセージを受け取ればいいのでしょうか。
 今日の福音書を、もう一度見てみたいと思います。お父さんには二人の息子がいました。お父さんは最初、兄に言います。「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と。ところが兄は「嫌です」と答えます。続いてお父さんは弟にも同じように、「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言います。すると弟は「承知しました」と答えます。この時点では、兄は「嫌だ」、弟は「いいよ」と答えたということです。
 しかし実際にぶどう園で働いたのは、兄の方でした。「嫌だ」と言った兄は考え直してぶどう園に出掛けました。しかし「いいよ」と言った弟は、そう答えたものの、ぶどう園に行くことはなかったということです。
 イエス様はこの話を聞いていた人たちに対して、「どちらが父親の望みどおりにしたか」と問います。人々は「兄です」と答えます。わたしたちの多くも、そう答えるでしょう。なぜなら実際にぶどう園に行って働き、汗をかいたのは兄だからです。弟は返事だけはよかったけれども、結局何もしなかったのです。
 この聖書の物語を読むときに、誰かを弟になぞらえて批判を繰り広げることがあります。「あいつは口ばかりで働かない」、「あんな偉そうなこと言っているけどその働きはどうなんだ」。逆に悔い改めて劇的に信仰に入った人を「兄」として考えていく。そして聖書の中では、「弟」はファリサイ派や律法学者、「兄」は罪人や徴税人、娼婦たち。そのように二つのタイプを明確に分け、「兄」にならないと救われないと説く。それがこの物語が伝えたかったことなのでしょうか。
 さて、少し視点を変えてみたいと思います。この物語に出てくる二人の兄弟に、大きな共通点があることにお気づきでしょうか。父親に対する返答も、実際の行動も真逆の二人ですが、実はこの二人には共通点がありました。それは二人とも、「心変わりした」ということです。
 この物語には、二人の兄弟しか出てきません。しかし考えてみると、あと二つの行動パターンがあると思います。一つは父親の呼びかけに「はい、行きます」と素直に答え、実際にぶどう園にも行ったというもの。そしてもう一つは「嫌です」と答え、ぶどう園には行かなかったというもの。
 しかし物語の兄も弟も、「そうは言ったものの」と途中で心を変え、言葉とは違う行動をとったのです。少なくともこの部分においては、この兄弟は同じだと言えるのです。
 考えてみますとわたしたち人間は、常に心変わりする存在ではないでしょうか。言葉とおこないが一致しないことは、しょっちゅうです。「神さまのために良いことをしよう!」と朝に決意しても、夜に思い返してみれば何もできていないばかりか、人を傷つけていたということなどしばしばです。逆に朝から心が暗くイライラしているのに、ふと人に親切に出来たり、周りの人を笑顔にすることができたりということもあります。
 わたしたちの心は、いつも揺れ動きます。時には兄のように良い方向に向かうこともあれば、弟のように父を悲しませることもあります。それは、わたしたち人間は決して完全ではないからです。
 イエス様はこのたとえを話された後に、周りの人たちに問いかけました。「どちらが父親の望みどおりにしたか」と。人々は「兄です」と答えましたが、ここでイエス様は明確に正解だとは言われませんでした。
 イエス様が語った「父親の望みどおり」とは、一体なんでしょうか。ぶどう園で働くということ、これは神さまの働きに参与することです。神さまの恵みを両手いっぱいに抱え、それをたくさんの人と分かち合うことです。父である神さまは、その働きを一緒にして欲しいと、兄にも、弟にも、そしてわたしたちにも呼び掛けておられるのです。
 途中で何回気が変わってもいい。心変わりしてもいい。すぐに行きますと言ってぶどう園に行った人には、ふさわしい恵みをあげよう。最初は生き渋っていたけどあとからようやくぶどう園に来た人にも、ふさわしい恵みをあげよう。「わかりました」と約束していたにもかかわらず、なかなかぶどう園に姿を見せない人にも、いつかきっとやって来ることを信じてふさわしい恵みを用意しておこう。「嫌です」と言い切り、まったく姿を見せない人だとしても、いつまでも待ち続けよう。
 それが神さまの望みなのです。神さまはわたしたちがその恵みに与かり、すべての人が喜びで満たされることを願っておられます。その働きを共に担うことができれば、どんなにうれしいことでしょうか。