司祭 アントニオ 出口 崇
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」マタ18:20
今、ネガティブな言葉をポジティブな言葉に言い換えるということが、様々なところで言われており、幼稚園や家庭などで、子どもの自己肯定感を育てていくために、必要なものとなっています。「いいかげん」は「おおらか」、「気が弱い」は「やさしい」、など、考え方、物事のとらえ方、見方を変えることで、少し楽になる。社会全体、共同体全体が楽になることがあります。
数年前に教区でこのようなワークショップがあり、参加しました。
自分の弱い部分、ネガティブな部分を隣の人がポジティブな表現に変える、という内容で、私は「すぐにあきらめる」という自分のネガティブな部分があるのですが、隣に座った方は、わたしのネガティブな表現を「切り替えが早い、前向き」というようなすばらしい表現に変えてくれました。
誰かと関わりをもつ時に、一方的な感情で否定するのではなく、別な見方をもって、肯定的に接するというトレーニングでしたが、私の「すぐにあきらめる」というのは、自分自身のことであると同時に、自分と考えが合わない人に対して、これ以上関わると面倒くさくなる、自分がしんどくなるという思いから、関わりを切り上げる、距離を置く。ということを良くしているな。という思いから出た言葉でした。
イエス様は、私とは真逆の「あきらめない生き方」をされていました。とても面倒くさい関わりを持ち続けられます。
イエス様のことを全く理解しない人たちを弟子として、何度も何度もあきらめずに真実を伝えますし、イエス様と敵対する人たちに対しても、あきらめずに神様の求めておられる生き方を伝え、社会の不条理に対してもご自身の身を挺してNOと言い続けます。
それは、全ての人を神様の救いに招き入れる、神様との関係を修復するという大きな役割、働きを持っておられたからでした。切り替えが早く、駄目だと思ったらすぐに次に行く、ある意味「前向きな方」であったならば、誰一人神様の救いに与ることはできませんでした。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」
教会の礼拝などで、誰かと共に祈る時、心を一つにして祈るということは、自分の思いだけではなく、周りの人にも思いをはせる、自分だけのエゴを超えるということが必要となっていきます。
自分だけでは様々なことを「あきらめてしまう」、祈ること、神様に求めることもあきらめてしまう弱い存在である私たちであることを御存知のイエス様が、共に祈ること、心を一つにすること、支えあうことで、神様とつながっていくことが出来ると教えてくださっています。
|