司祭 ルカ 柳原健之
「溺れる者は藁をもつかむ」ということわざがありますが、今日の福音書からはそのようなイメージを受けます。
イエスはエルサレムから見れば北の方に行かれます。ここで、この地の女性と出会われるのですが、彼女は異教徒であったようです。彼女はイエスのことを「ダビデの子」と呼んでいます。イエスが旧約時代から待望されていた救い主であるということを、確信を持って、いや、自分の娘を悪霊から救うためには、確信を持つしかなかったのかもしれません。それだけ彼女は切迫しており、イエスに助けを求めに来たのでした。
しかしながら、イエスは何もお答えにはなられませんでした。この対応にどこか冷たい印象を受けてしまいますが、それはイエスがイスラエルの人々に遣わされたという使命に集中しておられたからです。そのことが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という答えに現れており、そのため異教徒の彼女は対象外であったのです。
イエスの彼女を無視するような態度を取り、また弟子たちもこの女性のことを追い払ってくださいとイエスに頼んでいます。そんな状況にも関わらず彼女はイエスに懇願し続けます。ついにはひれ伏してまで頼むのです。ここでのひれ伏すというのは「礼拝する」という意味をも持っている言葉が使われていますので、この女性が単にひれ伏してお願いをしていたのではないということが分かります。いわば神頼みに近いものだった、そのように想像することが出来ます。
そのような懇願に対してイエスは、この女性に救いを与えるということは子どもからパンを取り上げて、子犬にあげるようなものだと答えておられます。「犬」というのは旧約聖書からして軽蔑すべき動物として見られていました。その調子は新約でも受け継がれていますので、ここでもあまり良い意味では使われていないのでしょう。しかし、そんな言葉にも負けず彼女は言い返します。彼女の言い返しはしたたかで、「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのであると」と言っています。私達はパン屑と聞いて思い出すのは、食パンから落ちる小さなパンの欠片のことだと思いますが、当時パンの屑とは、手を拭く物であったようです。主人がいらないと思って落としたパンの屑を、そんなもののおこぼれでさえ、私はそれに与りたいということを願い出ている一文なのです。彼女が見せたイエスへの執念、娘をなんとしてでも救おうという気概が見える一文なのです。
彼女が見せたイエスを主と信じ、その救いに与りたいとする願いをイエスは認められました。イエスはイスラエルを救うことに焦点を当てられておられましたが、彼女はその向きを自分の方に向けることに成功したのでした。イエスを振り向かせるほどの信仰がこの物語から見えてきます。
がむしゃらに、食らいつく信仰心が私たちにあるでしょうか。それこそイエスを自分の方に振り向かせるほどの。信仰において食らいつくということはみっともないことではなく、むしろそれだけ信じてぬける、熱心さの表れでもあるのではないでしょうか。そんな熱心さを持ってイエスに近づいていきたいと思います。
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