司祭 エッサイ 矢萩新一
今日の福音書(マタイによる福音書第14章22−33節)は、荒波に沈みそうなペトロを湖の上を歩くイエスさまが引き上げる奇跡物語です。荒波に浮かぶ船は、この世界における教会の姿として、また人生の浮き沈みとしてよくたとえられます。「人生の海の嵐にもまれきしこの身も…」という讃美歌があったり、順風満帆という熟語があったりします。イエスさまは強いて弟子たちを船に乗せ、向こう岸へ行かせたと記されています。強いてとありますから、その必要性があったということです。
私たちは、人生やこの世の現実という湖をどんな船に乗って航海しているのでしょうか。豪華で大きな客船でしょうか、木製の穴のあいた小船でしょうか、鉄板でできた少し頑丈な釣り船でしょうか。たとえどんなに大きなタンカーであっても、浅瀬で座礁することがありますし、逆に小さな船の方が波に乗ってうまく漂うことができることもあるかも知れません。順風満帆にいっているように思える時こそ、急な逆風によって受けるショックは大きいのだろうと思います。弟子たちは、さっきまで一緒にいたイエスさまを「幽霊だ」と見間違えるほどに、気が動転して混乱していました。弟子たちの中で、ペトロをはじめアンデレやヨハネたち、少なくても4人は、もと漁師でしたから、航海のプロであったはずですが、逆風の激しい波に打たれ、大きな不安の中にありました。私たちもそれなりに経験を重ねた、いわば人生のプロであるはずですが、よく失敗はしますし、日々の心配事は尽きることがありません。自分たちは経験を積んだ漁師なんだから大丈夫という過信、人間的な価値観を重視しすぎる危うさが、イエスさまを幽霊だと見間違える大きな要因ではなかったでしょうか。今までの自分が培ってきた経験や信じてきた方法では対処しきれず、常識ではあり得ない方法で導いて下さるイエスさまを恐れ、大きな不安に陥ってしまうのが、私たちの弱さです。長年培ってきたつもりの信仰も、どんな逆風が吹いて、いつ揺らいでしまうか分からないということです。
今年、敗戦後78年が経ちました。当時日本が勝つと信じて疑わなかった人たち、そう教えられていた多くの人びとにとって、日本の敗戦は大きな衝撃だったと思います。また、天皇は神様だと教えられてきた子供たちが、8月15日を境に、教科書を墨で塗りつぶすことを命じられ、全く逆のことを教えられていきました。本音の所ではもう苦しい思いをしなくてもいいんだと胸をなで下ろした方も少なくはなかったと思います。そして日本は、アジア諸国をはじめとした多くの人々の犠牲、命と引き換えに憲法九条が与えられ、今日まで一応の平和が保たれてきています。私たちの先輩たちが大きな荒波を経験し、その上に今の穏やかさがあることを忘れてはならないと思います。しかし今、その平和憲法を改定して、軍隊を持ち、戦争のできる国を作ろうとしている動きが確実にあります。再び荒波が襲ってきて、船が沈みそうになっている時かもしれません。
しかし、そんな時にこそ、イエスさまはそばに来て下さり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけて下さいます。そのイエスさまの声にすぐ反応して、船から降りて湖の上を歩いてみたのはペトロでした。漁師であったペトロにとって、操り慣れた船を降りて荒波の上を歩くとう常識外れの行動は、相当の勇気がいることだったでしょう。信頼するイエスさまがそこにおられたからこそ、成せた業だと思います。私たちも、船にかじりついているだけでは、イエスさまを幽霊だと恐れているだけでは、どうにもなりません。先ずは、ペトロのように船を降りて一歩を踏み出す勇気を持ちたいと思います。ただ、せっかく勇気を出して一歩を踏み出したペトロでしたが、強風のただ中であることに気付いて恐れを感じた時、沈みかけて「主よ、助けて下さい」と叫びました。そしてイエスさまに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われてしまいました。これは私たちに向けられた言葉でもあります。私たちも、逆風に気づき、恐れを感じ、イエスさまを疑ってしまうことがしばしばあります。しかし、私たちが荒波に沈みそうになったとき、必ず手を伸ばして、捕まえて下さるのがイエスさまなのだということを信じ、覚えていたいと思います。今日の福音書の物語を、ペトロは信仰が薄いなぁと読み過ごさずに、イエスさまを信じて船を降り、そばへ近付こうとする素直さと柔軟さを持ちたいと思います。そして、ただ無防備に飛び込むのではなくて、そこにはイエスさまという確信があって初めて、救いの手が差し伸べられ、導かれていくのだということを知り、感謝して歩むことができれば素敵だと思います。
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