2023年7月30日 聖霊降臨後第9主日(A年)

 

司祭 マーク シュタール

   み言葉
   列王記上3:5−12
   詩編119:121−136 
   ローマの信徒への手紙8:26−34
   マタイによる福音書13:31−33,44−49

 シェクスピアは聖書の話やテーマを戯曲化する能力に長けていました。当時のチューダー朝に生きるプロテスタントの一般市民同様、シェクスピアも聖書を熟知していました。そして、自分の作品に聖書の物語を多く反映させています。今日のみ言葉を読んだ時、私はすぐにシェクスピアの「ハムレット」を思い出しました。列王記上でのソロモンが「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるようにこの僕に聞き分ける心をお与えください」と言ったように、今日のみ言葉とハムレットの関係を知りたくなりました。
 おさらいをすると、ハムレットはデンマークの若い王子です。彼の父親、デンマークの王がその兄弟(ハムレットの叔父)に殺され、王の妻(王妃、ハムレットの母親)と結婚する話です。ハムレットは復讐することに当惑します。さらに、ある霊(父親の霊)に苦しめられます。ハムレットは正義と復讐について、新約聖書と旧約聖書の教えの間で揺れ動きます。父親の霊は「命には命、目には目、歯には歯(出エジプト記21:23)」を求めます。でも、聖ルカによって始まるキリスト教の教えでは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい(ルカ6:27)」とあります。人間は辛抱強くなければならず、復讐をするのは神様なのです。

 み言葉と「ハムレット」に共通する最初のヒントは列王記でのソロモンの夢です。ここではソロモンは神様と深く通じていると感じています。ソロモンの父、ダビデ王が亡くなり、不安を抱えたソロモンは、状況的にはハムレットと似ていますが、ダビデは自然死であって、毒殺ではありませんでした。ソロモンは父のような偉大な王になれないのではないかと不安でしたが、自信を取り戻し、主の力と義を賛美します。ハムレットも夢を見ましたが、自分が堕落した神様の創造物として現れました。彼にとっては、世界は「雑草だらけの庭」に思えたのです。それはエデンの園で過ちを犯したアダムとイヴの話を思い起こさせます。神様と神様の創造物とはとてつもない距離があるのです。ハムレットもソロモンのように将来に不安を抱きます。しかし、ハムレットの場合は、父の暗殺というショッキングな事件により、それまでの幸せだった生活が一変したのです。さらに、自分の母親と叔父が結婚したことで、自分の存在が否定されたとハムレットは悩みます。ソロモンの場合は将来に光が見えていました。なぜなら、ソロモンは神から知恵を与えられたからです。神様は大いに喜び、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた...見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言いました。しかし、ハムレットには将来の光が全く見えません。彼は神様の恵みをまだ受けていなかったのです。

 使徒書では、パウロは神学的なテーマを提示します。アダムの罪によって、人はすべて罪人となり、神様から遠ざけられましたが、イエス・キリストによって、すべての人は義とされ、神様との正しい関係に立ち戻ることができたのです。まず、破壊があり、キリストの命、死と復活によって救いが来たのです。特に、聖霊は私たちの願いに深く関係しています。同じテーマが「ハムレット」にも一貫して見られます。ハムレットと霊との出会いが鍵となっています。ハムレットは、道義的にも、法的にも復讐のために人殺しをするのは間違っていると理解していました。しかし、父の霊の怨念と恐怖はハムレットを押しつぶすほどの迫力がありました。残念ながら、救い主であるイエス・キリストの救いはそこには感じられません。それは、まるでシェクスピアが贖罪や救いを封印して、アダムの罪による人間の顛末だけを示しているようです。しかし、救いは最終幕におけるハムレットの変身に見ることができます。そこでのハムレットの台詞はそのまま聖書のみ言葉を反映しています。
 ハムレットはずっと引っかかっていた「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という言葉を吐露します。そして、ついに神様のみ心のままにという単純な答えに辿り着くのです。そこから、彼は主体的に動き出します。神様に全てを委ねたハムレットはより自由に生きることができるようになりました。「ハムレット」の中で、シェクスピアは聖書の神学的な深い意味を踏まえた上で、人間の複雑な真理、行動様式を織り交ぜてさせているのです。

 今日の福音書では、イエスは大勢の群衆に神の国について諭しています。まず、イエスは二つのことを力説します。一つは隠された宝は、種やパン種や網といった日常の中から生まれるいうこと、二つめは、宝は田畑や海などからやがて見つかるということです。宝の収穫は、人の労働と深くかかわっています。種まき、耕作、漁、パン作りなどでです。イエスが説いたのは、神の国はいつも人々の労働と関わり、神様との関係を見失わなければ、やがて隠れている宝を見つけることができるということです。これは一貫性と信仰と将来を見据える姿勢を説いているのです。シェクスピアは一貫性に象徴される持続的な労働、神様との関係に象徴される信仰、将来を見据える姿勢がなければならないことを理解していました。当時の教育を受けた者は聖書が説く、復讐は神に属するものであるという教えを知っていたはずです。ローマの信徒への手紙12章19節:「復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる」。また、「正しい霊」ならばハムレットに復讐することを迫りはしなかったでしょう。
 ソロモンは知恵を求めること自体が偉大な報酬であると示しました。パウロはさらに、私たちはどんな状況にあろうと、神様と繋がっていれば、神様が私たちの経験を良いものとされると説いています。私たちの身に降りかかる良いものも悪いものも、やがて益となるということです。イエスは今日の例え話の中で、報酬は普段は隠れているが、日々、一貫性、信仰、将来を見据えることを諦めなければ、宝を見つけることができると言われました。

 私たちは人の特性を「ハムレット」を通して見ます。人は難しい局面では、誘惑に負けそうになり、救い主に委ねる難しさがあります。しかし、主は復讐よりも、赦しが偉大であることを私たちに教えています。今日の話を読み、改めてハムレットを読み、映画を見て頂くと聖書の教えが生きていることを実感されると思います。