司祭 セシリア 大岡左代子
わたしが教会に通い出したころ、日曜学校の子どもたちとよく歌った歌を思い出します。
♪道にまかれた種は 悪い鳥が見つけて ごちそうさまもいわず 盗んでたべた〜
当時流行っていたゴスペルフォーク「四つの種」の歌です。
今日与えられた福音書はこの歌で歌われた「種を蒔く人のたとえ」と、その解釈の部分ですが、「四つの種」と言われて馴染みのあるイエスのたとえ話です。
イエスは、当時ガリラヤの人々にいろいろなたとえを用いて「神の国」について話されました。特に、この種蒔きのたとえは農民が中心であっただろう群衆には、リアリティーをもって聞かれたことと想像します。古代パレスチナの農耕の方法からは、種は風を利用して土地全体に蒔かれるのですから、時に鳥に食べられ、時に茨に邪魔をされ、また石地の上に落ちて育たないものもあったでしょう。そして、それらの出来事が日常的におきることを群衆は良く知っていました。そんな風にうまく育たない種がある一方で、いくつかの種は豊かに実を結ぶことも良く知っていたのではないでしょうか。
この聖書の箇所を読む時「わたしは石地かな?」「あの人は茨にじゃまされているのでは?」「種を食べた鳥とは?」など、実を結ばないことに心を奪われてその原因を探ったり、誰かのせいにしたり、あるいは「わたしはだからだめなんだ」と自分自身を卑下したりする言葉をよく聞きます。そして、後半の解釈の部分に引きずられて、このたとえ話を教訓的にとらえてしまう、そんなことがあるのではないかと思います。けれども、イエスの話を聞いていた人々は、このお話をどんな風に聞いていたのでしょうか。きっと人々はこのお話を教訓として受け止めるのではなく、種蒔きにはいろいろな苦労があるし、思うようにいかないこともある、けれども、豊かに実を結ぶこともある。もし「神の国」がそのようなものであるなら、自分たちには遠い、手の届かないものではなく、とても親近感のあるものかもしれない、と受け止められたのではないかと想像します。鳥が食べるかもしれないから種蒔きをしないでおこう、石地に落ちるから蒔く範囲をもっと狭くしよう、と危険や苦労を避けるのではなく、無駄だと思える場合にも躊躇せず種を蒔くとき、必ず豊かな実りが与えられる。そこには「希望」がある、ということをイエスの言葉から人々は感じたかもしれません。
とかく、苦難や危険は避けたい、失敗を避けたいと思うのは人間の常です。けれども、人間の目には失敗だと見なされるような出来事の中にも、神は必ず憐れみを現してくださる、それこそが「神の国」の出来事であることをあらためて心に留めたいものです。
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