司祭 クリストファー 奥村貴充
法学部の憲法の授業で先生から「憲法の伝道者になれ」と言われたことがありました。憲法の最重要の条文は個人の尊厳と幸福追求権の13条ですが、そこから国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が導き出せます。先生は日本国憲法の三原則がこの世界で実現する思いを込めて学生たちに語ったのだと思います。
さて、今日の福音書(マタイ10:34−42)ではイエスは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」といっています(34節)。一見すると不思議な箇所です。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える(ヨハネ14:27)」と語るイエスとは真逆のような印象を受けます。しかし、今日の福音書には平和を願うイエスの真剣な問いかけが含まれています。簡潔に言えば、平和とは一体何なのか、普段、何気なく日常的に使っている平和というそんな考え方でいいのか?本当の平和とは何なのか?という問いかけです。ちなみに平和とは単に戦争がない状態を指しているのではありません。人びとが心の底から平安かつ神の愛・神の恵みに満たされた状態を聖書では平和と呼んでいます。そういう状態があってこそ魂の救済が実現するからです。
そう考えるならば、人びとの心が蝕まれている状態は決して平和ではないと言えるでしょう。今の日本では、確かに戦争はありませんが、神の愛・神の恵みに反する不祥事が続いて起こっています。その内の1つにハラスメントが挙げることができます。例えば、私の知り合いは加害者に向かって立ち上がったことがありました。そしてこう言いました。「あなたが普段から言っている『平和』とはどんな『平和』なんですか」。この人の言うように、ハラスメントは神の愛とは真逆で、平和とは相反するものです。だから声を上げて立ち上がったのです。第二の被害者を出さないようにするためでもあります。このエピソードから、本当の平和を実現させるためには、相手との衝突も時には必要ということを考えさせられました。そして、この世的なことに迎合していたら(このエピソードで言うならば、ハラスメントに甘んじていたら)、イエスが言う平和にはふさわしくなくなってしまいます。今日の福音書でイエスが言っていることとつながった思いがしたものでした。
イェーリングという人は『権利のための闘争』という本を書きましたが、岩波文庫版の29頁で「世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである」とあります。今日の福音書と相通じる所があります。イエスが伝えようとしていることは、時には立ち上がって闘っていくことも必要だということです。それを乗り越えたところに、権利が回復され、魂の救済が実現し、そして本当の意味での平和が実現するからです。
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