2023年6月18日 聖霊降臨後第3主日(A年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

「また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)

 教区のHP説教で、政治が関連する話はあまり好ましくないのかもしれないですが…。
 先日来、入管法改悪、健康保険証廃止が強引な形で成立してしまいました。この両方の法律、特に人間を人間扱いしない入国管理局でどのような非道がおこわなれたのかという確認作業もしないまま、法律が改悪されたことが悔しくてなりません。
 日本に来て、難民認定が認められず、あるいは「不法滞在」という立場に追いやられて、病気に罹ったり労災に遭っても病院にかかることもできず、住民票がないため日本で学校に通うこともできない人々のために、走り回っているあの人やこの人の顔や姿が思い浮かびます。マタイ福音書に描かれたイエスさまは、多くの人々と出会い、一人ひとりの困難や生きづらさを何とかしようと力を尽くされながら、「神の国(マタイの表現では「天の国」)」について、多くの人々に語りかけておられます。
 イエスさまは、一人ひとりの置かれた(追いやられた)困難な状況に、「はらわた」がちぎれるほど激しく感情を揺さぶられ、駆り立てられるように人々の状況を何とかしようと力を尽くされたのではないでしょうか?そんな状況なのに、神殿や会堂では、律法をいかに「正しく」守るかという議論に明け暮れている。そんな様子を悔しく、腹立たしく、悲しい思いで眺めておられたのではないかと思うのです。

 「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」というイエスさまの言葉は、往々にして、聖職志願をする人が増し加えられますようにという祈りとともに引用されます。前述した状況の続きとして読むと、これだけ困難に直面している人々が大勢いるのに、ともに働いてくれる仲間がこんなに少ないのか、という嘆き、ため息ともとれるのです。教会の牧会という働きに限定するよりも、現実の困難に立ち向かう仲間が一人でも与えられますように、という切実なる祈りに聞こえてならないのです。
 2023年6月、わたしは、イエスさまの祈りのように、一人ひとりの困難と共に駆けずり回ろうとしているのか、律法をいかに正しく守り「秩序」を整えることに奔走してるのではないか、という二つの問いの前に立たされています。わたし自身の懺悔として、滞日外国人の方々の困難を何とかしようと駆けずり回ることはできていません(していません)。だからこそ、せめて目の前にいる一人の学生、教職員の方、こども園のこどもたちと、しっかり向き合い、その人が十分にその人として、神様の宝物として大切にされる場を整えること、そのための協力を仰ぐこと、それをひとつずつ積み重ねていくしかないのです。祈りながら。