司祭 ヨハネ 古賀久幸
―イエス様につながれて―
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である【ヨハネによる福音書15章1節】
こども園の畑でキュウリを育てていると、近所の農家の方が「蔓がしっかりせんうちは実を成らしたらいかん」とボソッとつぶやかれました。また、あるときは「水をようけやりゃええもんではない」とも。素人栽培のへたくそさにプロとして見るに見かねてのご助言と有難く承っております。そして、その一言一言が幼児教育の真理に通じることに深く感じ入った次第。人生の師はあちこちにおられます。
成長の時々に応じて人生のテーマがあるのですが、大人になった人間に期待されることは実を結ぶことでしょう。仕事で成果をあげる、財産や家庭を持つ、信頼を得るという実の結びかたが世間一般の考えです。しかし、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」とイエス様はご自身につながっており、神様という農夫に不要に伸びた枝をバッサリと選定されて結ぶ実のことを問題にされるのです。聖書は生きた人間の個別の遍歴をとおして普遍的な真理を語ります。偉大な伝道者パウロという攻撃欲の塊のような一人の男を見てみましょう。彼は宗教的熱心さ故に妥協を許さない性格で、産声を上げたばかりのクリスチャンを情け容赦もなく迫害しました。そして、更に獲物をもとめてダマスコに行く途上でキリストに出会い、イエス様の幹につながれて人生は一変します。とはいうものの、彼の生まれ持った攻撃的な性格は変わりませんでした。神様はそれを否定することなくイエス様と言う幹に接ぎ木されご自身の器として用いられたのです。彼の攻撃的で妥協を許さない気性は難破や迫害を乗り越えて福音を世界に伝える武器となりました。キリストに出会わなければパウロはユダヤ社会の中で指導的な地位につき、それなりの名声を得たことでしょう。彼の人生を取り上げて聖書は人間の大切なテーマを教えます。それは、自身のさまざまな生まれ持ったものを神様のご計画に差し出すかどうかです。イエス様は私たちに向かって、豊かな実をつけるにはわたしたちの生命を差し出しなさいと言われます。それがわたしにつながっていなさいとの意味なのです。あっちに行きたい、こっちを伸ばしたいと言う思いを神様によって厳しく剪定され、そしてイエス様につながっていることで逆説的に人生は広がりより豊かになっていくのです。実が成熟するまでには時を縮めることも先送りすることもできない、それぞれに与えられた神様の時を待たねばなりません。結ぶ実の豊かさは人間の目で判断できないのですが、経験豊かな農夫である神様の目は間違いがありません。イエス様につながった枝が結ぶ実は、神様の口の中で甘みが広がるのです。ずっとイエス様につながっていましょう。
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