司祭 サムエル 門脇光禅
「エマオ途上にて」【ルカによる福音書24章13節以下】
日没に向かって2人の人が歩いていました。この2人はなぜイエスさまに気づかなったのでしょうか。エマオの町はエルサレムの西の方にありました。沈み行く太陽が2人をまばゆく照らしたため彼らはイエスさまを見分けることが出来なかったのでしょうか。
キリスト者とは日没に向かって歩む者ではなく、日の出に向かって歩む者のはずです。
エマオ途上の2人が、悲しみと失意の中で忘れてしまっていたことは、まさにこのことであったのではないでしょうか。
イエスさまの鋭い洞察力が見られます。この2人には万事が無意味に思われていました。彼らの夢も希望も、イエスさまの十字架によって露と消えたのでした。彼らの「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」という悲しみの言葉には、この世のうろたえた悔恨の情が集約されているように見受けられます。これは希望が無くなった人の言葉です。それからイエスさまが現れて彼らと言葉を交わされます。すると急に生きる意味が明らかになって闇が光となりました。
イエスさまに出会うとき、たとえ途方にくれているときでさえ、私たちは生きる意味を知ることができます。ここでイエスさまのすばらしい配慮を読み取ることができます。
彼らと同じ方角に行く旅人のように振舞われて、ご自分から割り込まず彼らが招き入れるのを待っておられます。
神さまは人間に私たちに、すばらしいけれども危険な贈り物を賜りました。それは、人間の自由意志です。私たちは自由意志でキリストをこころに迎えることも出来れば、去らせるために使うこともできます。
もうひとつ、このお話で知るのはパンをさくのを見て彼らはイエスさまと悟ったことではないでしょうか。このことは一見、聖餐式と見て取れますが本当にそうでしょうか。
それはただ普通の家の食事だったと思うのです。普通のパンが分けられたのを見て、この人たちがイエスさまと認めたのではないでしょうか。たぶんこの2人は、かの5000人の給食の場に居合わせていたのかも知れません。彼らの貧しい家でパンを裂くのを見たとき、とっさにイエスさまのみ手であることを認めたのでしょう。
わたしたちがキリストと共にいるのは聖餐式に於いてだけと思いがちですが、普通の夕食のテーブルを囲んでいるときにも、私たちはイエスさまと共にいることができると思うのです。キリストは教会の主であるだけでなく、各家庭の客人ともいえるではないでしょうか。
キリスト者はいつでもどこでもキリストの満ち満ちた世界に住んでいるのではないでしょうか。
そしてこの2人は素晴らしい体験をしたとき、それを友と分かち合うため急いで出発しました。エルサレムまで引き返すまでには約11キロ歩かないとならなかったのですが、彼らはこの良い知らせを自分達だけ持っていることはできなかったのです。キリスト教の使信は誰か他の者と分かち合うときはじめて完全に私たちのものとなります。
さらに彼らがエルサレムに着くと、そこにはすでに自分達の体験を分かち合った人びとがいたことが更なる喜びとなります。キリスト者の喜びは、同じ経験を持つ人々との交わりに生きることだからです。
イエスさまの共通の体験、共通の記憶を分かち合う人々の素晴らしさ知っているのがキリスト者なのだと思います。
イエスさまのご復活のうれしいことの一つ、それはイエスさまがペテロに現れたことです。イエスさまは、自分を裏切った男に真っ先に現れたのです。イエスさまは自尊心を帳消しにして、悔い改めた罪人を迎え入れてくれたのでした。
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