2023年4月16日    復活節第2主日(A年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「あなたがたに平和があるように」

 復活されたイエス様は、最初、マグダラのマリアにご自分を現されました。その後、福音書には彼女がイエス様を見たことや話されたことを他の弟子たちに告げたと記されています。今週の福音はこの後につづくお話です。
 弟子たちはこのマリアからの喜びの知らせとは裏腹にびくびくして家に鍵を掛けて閉じこもっていたとあります。
 そんな時です。鍵を掛けていたにも関わらず、いつとも知れずイエス様が弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(安心して行きなさい)。」とやさしく語られます。そして、イエス様は十字架で受けられた手と脇腹の傷を見せられます。「イエス様は、本当に甦られたのだ。」この瞬間、彼らの心は、恐れから喜びに変わりました。
 イエス様が鍵の掛けられた部屋に入り、ご自分の手と脇腹の傷をお見せになった、この出来事…福音記者ヨハネは私たちに何を伝えようとされているのでしょうか?それは、ご復活されたイエス様は弟子たちの願望が生み出した幻ではなかったこと、あるいは、私たち日本人がイメージするような実体のない、幽霊のような存在ではない、たしかにイエス様であった…この真実を強調しているのだと思います。
 一方で福音記者ヨハネは、ご復活されたイエス様はこれまでと違い、鍵のかかった部屋にも自由自在に出入りできるような新しい体としてご復活された、この真実をも伝えようとしているのではないでしょうか?
 さて、この時、彼らは部屋に鍵をかけて閉じこもっていましたが、彼らが鍵をかけて閉ざしていたのは実は、彼らの心だったのではないでしょうか?
 そして、彼らが恐れていたのは実はユダヤ人というよりもイエス様ではなかったのではないでしょうか?そしてイエス様とお会いしたというマリアの知らせにこの恐れはいっそう大きなものとなっていたのではないでしょうか?
 あれ程まで愛していた、そして尽してきた先生、たとえ殺されそうになっても最後まで従っていきますと豪語していたにも関わらず、結局逃げてしまった、裏切ってしまった自分たち・・・意思の弱さや死への恐怖、愚かさのため先生を見捨ててしまったという深い罪の意識、彼らの脳裏には、常に浮かんでは消え、消えては浮かんでくるイエス様の幻、自分たちのことを憎み、恨んでいる恐ろしい面持、そんなイエス様に怯えていたのではないでしょうか。
 まさにその時、彼らの真ん中にイエス様が現れた・・・しかし、現れたイエス様は自分たちを呪ったり、憎んだりして責めるどころか、「安心して行きなさい」と言ってくださいました。そして、目の前のイエス様は幻ではない、十字架で受けられた傷のある、あの先生ではありませんか。
 この時、閉ざされていた心は開かれました。恐れは安心に変りました。同時に彼らは気付いたはずです。イエス様の手と脇腹の傷は自分たちのためであったのだ・・・イエス様の傷は罪深い自分たちをも赦してくださる神様の慈しみであったことに気づいたのです・・・復活のイエス様は彼らに対して更に重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように(安心して行きなさい)。」
 この後、弟子たちとイエス様と新しい関係が生まれました。弟子たちはこれまではいつも後ろに従っていながらもイエス様の本当のことが理解できない弟子たちでしたが、この時を境に、イエス様が真の救い主であることを理解できました。同時に、イエス様が十字架の後に必ず復活されること仰っていたことが目からウロコが落ちるように分かったのです。そして、この後イエス様のことを世に証ししていきます。
 ところで、今週の福音には復活の主が現れた時、ちょうどそこにいなくてイエス様に出会えなかったトマスが出て来ます。「疑い深いトマス」のニックネームで紹介されている弟子で、イエス様から「見ないのに信じる者は幸いである」と諭されていることからトマスは、ある意味、信仰者としては良くないお手本のように思われています。また、私たちもこの言葉をそのように額面通りに受け取っているように思います。つまり、イエス様は、わたしたちにトマスの様に見たから信じる者でなく、見ないでも信じることのできる者になりなさい、見ないで信じることのできる者こそ良い信仰者なのだ・・・私たちはイエス様がそのように語っているように思っていないでしょうか?
 でも、果たしてそうでしょうか?決してそうではないと思います。と言いますのもトマスは、決して不信仰な者ではないと思うからです。他の弟子たちが復活の主を信じたのは彼らがその時、部屋にいたからであり、その点、彼らもイエス様を見たから信じたのです。トマスはたまたまその時いなかっただけで、全く他の弟子と同じです。むしろ、彼は他の弟子以上にイエス様のことに熱心であったのかも知れません。だからイエス様が他の弟子たちだけに会ったことに嫉妬していたのです。手に釘の後を見、指を釘跡に入れて見なければ信じるものかと拗ねていたのです。しかし、イエス様は、トマスの所にも、鍵のかかった部屋の中に入りきてくださいました。そして、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。更に、傷の跡まで見せてくださいました。
 その瞬間、トマスは「わたしの主よ、私の神よ」と信仰を告白します。この時、彼の閉ざされていた心も開かれます。十字架の釘跡が決定的に彼を変えたのです。イエス様の傷が罪深い自分のためであったことに気づいたからです・・・その時、このような自分をも赦して下さる神さまの大きな慈しみを見たのです。
 「見ないのに信じる者は幸いである。」このイエス様の言葉。この言葉は、今日の福音の結びをご覧ください。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエス様は神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」イエス様の言葉は、今を生きる私たちのために語られた言葉なのです。
 最後、信仰生活の中で、私たちは時に、自分の心を閉ざしてしまうようなこともあります。神さまに言えないような罪を犯し、そのことで怯え、心に鍵を掛けてしまうようなことが人生の中にないでしょうか。トマスの様に拗ねてしまうこともあるかもしれません。しかし、そのような時、イエス様は自由自在に私たちの閉ざしている心の内にきてくださり、心を開こうとしてくださいます。そして、安心して行きなさいと赦し、慰め、励まそうと来てくださっています。復活のイエス様は、私たちがしんどくて起きあがれないような時も再び起きあがらせてくださいます。今日この時もイエス様が真ん中に立っておられます。