司祭 ヨハネ 石塚秀司
「復活する」
【使徒言行録10:34−43、コロサイ3:1−4、ヨハネ20:1−10】
イースターおめでとうございます。
きょう私たちは、よりいっそう十字架のイエス様を心に刻んで過ごした大斎節を終えて、ご復活の日を迎えました。そのイエス様のご復活の様子がヨハネ福音書に記されています。
20章1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」すなわち日曜日の朝早く、明け方ということです。マグダラのマリアが、イエス様のご遺体を納めた岩壁を掘った洞窟のお墓に行ってみると、墓から石が取りのけられているのを発見します。残酷な十字架刑のイエス様のご遺体を納めたお墓の大きな墓石が、のけられているのを見たマグダラのマリアはさぞ、正気を失う程、動揺したことでしょう。その後、マグダラのマリアの知らせでシモン・ペテロともう一人の弟子が墓に向かいました。まず、シモン・ペテロが墓の中に入りました。イエス様のご遺体の亜麻布や頭を包んでいた覆いが、離れたところに置かれていても、ご復活されたことは気づかず、シモン・ペテロも大変驚き何が起きたのかと困惑していたと想像できます。そして、8節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とようやく、空っぽになった墓を見て、もう一人の弟子はイエス様のご復活を悟ったのです。この弟子はイエス様から愛され、その愛を受け止めており、第1番にご復活のイエス様を信じた人になりました。そして、この空っぽの墓の発見という出来事を通して、聖書は主のご復活を伝えます。
第一弟子のシモン・ペテロについてはイエス様が十字架に捕らえられた夜に三度もイエス様との関係を否定し、関係が不安定でした。そのような状況の中、混乱しご復活をにわかには信じ難かったのでしょう。マルコによる福音書9章31節に「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と記されていますが、ご復活を以前から教えられていても、弟子たちは意味が、そのときには分かりませんでした。そして、イエス様が弟子の元を去られることや戻ってくる(復活する)ことを度々聞いていながらも、イエス様に実際に起こった本当の場面に出会い、その場所まで行って、墓石が取り除かれ、遺体を包んだ亜麻布の抜け殻の様子を見て初めてご復活を受け入れます。その意味で、主のご復活は、弟子たちだけではなく、私たち人間の常識では信じ得ない出来事として聖書は伝えていると言えます。
主のご復活という出来事は、信じない人にとっては、単なる不思議なお話ですが、コロサイ人への手紙3章1節以下において、地上のものに心を引かれるのではなく、上にあるものに心を留めることにより、私たちの命はキリストとともにあって、キリストの栄光の内に包まれて過ごすことができると教えています。
父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた人は、自分の心にある喪失感から解放されて、洗礼を受けたときの純粋な思いに立ち返ってこれからも歩むことができますように。また、まだイエス様を知らない人が、目に見えない営みによって命が芽生え守られる不思議さに気づくように、イエス様のご復活を信じることができますように。そして、すべての人がご復活の主に出会い、伴われて、心強く日々過ごすことができますように。祈りたいと思います。
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