司祭 エレナ 古本みさ
「光に包まれるとき」【ヨハネによる福音書11章17−44節】
復活日まであと2週間、桜が満開となりました。またこの季節が巡ってきたと私たちのほとんどが思いますが、どうでしょう?これまで桜の花を見たことがなく、もしそれが毎年咲くものと知らなかったなら。枯れ木のような寒々しい枝ばかりだった木々が、まるでピンクのふわふわの綿菓子かのように生まれ変わるなんて誰が想像できるでしょうか。「神さまのなさることは時にかなって美しい。」まさに、このみ言葉が口をついて出てくるかのようです。
私たちの人生においても、時に思いもしないようなサプライズが起こります。誰かに恋をしたとき、結婚の約束をしたとき、自分のおなかに生命が宿ったとき、愛する人が洗礼の恵みに与ったとき、まさにそんな気持ちになりますし、期待をはるかに超える結末を迎えたり、真っ暗闇の中に小さな光を見出したりしたときに神様を感じずにはおられなくなります。今年の大斎節の主日にこれまで読まれてきたヨハネ福音書のエピソードからも、そのことを再確認することができます。
ヨハネ福音書四回シリーズの最後となる今週はラザロの復活の物語です。この話は、死人が生き返るという内容が衝撃的過ぎて、私たちの思考はそこで止まってしまいがちですが、注目すべきはそこではありません。これまでの三つの物語と同じように、暗闇の中で希望を失い、もう立ち上がることができないと思うほどの深い悲しみの中にある人々に、イエスは神の栄光を現わし、光を照らしてくださる。そして光の中へといざなってくださる。このことを示す物語なのです。
べタニアのマルタとマリア、そしてラザロは、イエスが生前とても親しくしておられた人たちでした。しかし、ラザロは病気になり死んでしまいます。主に触れられた病人は必ず癒されることを知っていたマルタとマリアは、イエスが臨終に間に合わなかったことを悔やみます。彼女たちの涙を見たイエスは、弱い信仰を叱る代わりに涙を流されました。そして言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。それは、私たちが何百歳までも死なずにいるということではありません。ラザロのように皆、蘇生するということでもありません。それは、どんなにつらいことがあろうとも、いかなる絶望のどん底に落とされようとも、再び立ち上がらされるということです。神さまの光の中で新しい命に生かされるということなのです。
「ラザロ、出てきなさい」、イエスにそう声をかけられ、死人は真っ暗な墓の中から光の中へ出てきました。このラザロは、今ここに生きるわたしたち一人ひとりです。私たちは、今イエスに出会い、光の中へ導き出されたのです。これまでの福音書に登場したニコデモのように、サマリアの女のように、生まれつき目の不自由だった人のように、そしてラザロ、マルタ、マリアのように。
主イエスは布でぐるぐる巻きのまま光の中に出てきたラザロを前に、そばにいた人々に言われました。「ほどいてやって、行かせなさい」。光の存在を知った私たち一人ひとりも、今、罪と死の鎖を解かれ、「行きなさい」と呼びかけられているのです。イースターまでの2週間、主の声をしっかりと受け止めることができるよう心の耳を澄ませてまいりましょう。
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