司祭 アントニオ 出口 崇
「暗闇を照らす光」【ヨハネ3:1−17】
イエス様のもとに集まる人たちの多くは、イエス様からの直接的な救いを求めていました。病からの回復、排除されていた共同体への復帰など、イエス様の存在、言葉はまさに彼らにとっては「暗闇を照らす光」そのものでした。
ニコデモは対照的に、社会的地位もあり、ファリサイ派に属し、律法を忠実に守り、神様の救いに最も近いとされる立場の人でした。イエス様の存在を疎ましく思っていた人たちの一人でしたが、イエス様の行った奇跡に心惹かれ、その中に神様の働きがあると確信し、イエス様のもとに来ます。病気や貧しさという直接的な救いでイエス様を求めるのではなく、初めからイエス様の中にある神様に心を向けていました。
そのニコデモに対してイエス様は、神の国は既に始まっており、それを見ることが何よりも大切なことであり、そのためには「新たに生まれること」存在が新しくされることが必要であると教えます。
「新たに生まれる」私たちが洗礼を受けるのは、新生、新しく生きる、自分自身の力だけでは生きていけない存在であることを認め、イエス様の救いに与り生かされていることを受け入れる、と言う信仰告白ですが、ニコデモにも同じことを求めます。自分自身の力や努力のみで神の国にたどり着くのではなく、すでに神様は私たちの元に来られている。神の国が始まっていることを受け入れなさいと、イエス様はニコデモに伝えます。
社会的に立場のあるニコデモにとって、イエス様の言葉を素直に受け入れることが出来ませんでしたが、イエス様は何度も何度もニコデモに対して説明していきます。それは理論的に納得させようということではなく、ただ「闇に光を当てる」と言う行為でした。
イエス様はご自身を求める人間に対して、その人の思いを知り、何度も何度も神の国、イエス様に従うことを呼びかけ、自分ひとりの力ではどうすることも出来ない、対峙することも出来ない暗闇に光を与え続けてくださっています。
大斎節、私たちの暗闇、葛藤、悩みの中にもイエス様がいてくださり、思いを分かち合ってくださる。光を照らしてくださっていることを覚えたいです。
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