司祭 ルカ 柳原健之
最近、外食店での非道徳的行為の動画がSNSにあげられ、炎上しています。彼らは、動画を見た人々が嫌な気持ちになり、お店に多大な迷惑が掛かるという想像力が欠けているのでしょうか。また、思いとどまることを知らないために、動画をSNSに上げてしまうのでしょう。おそらく自制が効かないのでしょう。もしイエスが今の時代にいたのであれば、今週の福音書で言われているような、「しかし、わたしは言っておく、非道徳的行為をSNSにあげる者は、裁判にかけられ、巨額の賠償金を支払うことになる」とでも言われるかもしれません。
顕現後第6主日の福音書では、山上の説教箇所から、「腹を立ててはならない」(マタ5:21〜24)、「姦淫してはならない」(5:27〜30)、「誓ってはならない」(5:33〜37)が選ばれています。イエスは、律法では「殺すな」と命じられているが、それ以前に「腹を立ててはならない」、「姦淫するな」と命じられているが、「みだらな思いで他人の妻を見てはならない」、「偽りの誓いを立てるな」と命じられているが、「一切誓いをたててはならない」と教えられています。イエスは、律法で記されていることよりも一段も高いことを求めておられます。それは何故か。殺すということを突き詰めていきますと、腹を立てることが起こることが原因です。姦淫については女性を見る男性の眼差し、その奥底にある感情から問い正していかねばなりません。偽りの誓いがあふれてしまうと、誓うこと自体の価値が問われ、誓うことによる信頼関係が築けなくなる恐れがあります。
イエスは私たちが日頃行っていること、それも何気なく、もしかしたら悪気さえなく行っていることを自分の中で問い直し、そして思いとどまるように促されているのではないでしょうか。イエスは「ばか」という一言でさえ思いとどまらせようとされています。それは、その一言が人間関係を壊し、愛から遠く離れる行為に繋がっていく原因になり得るからです。
思いとどまることが出来る人は、人と人との関係、つまりは隣人愛を大切にすることが出来るでしょう。思いとどまることは、神を愛することに繋がり、神と人との関係を大切にすることが出来るのです。
イエスは私たちを愛に生きる人に変えようとしてくださっています。日常におけるほんの一言やしぐさを振り返ってみたいと思います。それは愛に繋がっているでしょうか。
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