2023年2月5日     顕現後第5主日(A年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

 今日の福音書(マタイによる福音書第5章13−20節)は「山上の説教」の中で、先週の「8つの幸い」「あなたは幸いですよ」というメッセージに続く、「地の塩、世の光」という有名な箇所です。この箇所を読むとき、いつも地の塩、世の光として、善い行いをしなさいという読み方をすることが多いかも知れません。もちろんそういう心構えも大切ですが、イエスさまは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と断言をされます。塩ではない人間に向かって、無理をして塩味を出せとか、光でない人間に向かって無理に輝けと言われているのではありません。むしろ、誰が何と言おうとあなたは塩なのだから塩味が染み出てくるのは当たり前、光なんだから照らし出すのは当然なのだというニュアンスで語られているように思います。弟子たちをはじめ、この話しを聞いていた人々は、苦しみや思い悩みをイエスさまに癒してもらいたいと願う人々でしたし、弟子たちもイエスさまに従う前は漁師で、何か秀でた能力の持ち主ではなかっただろうと想像します。そんな私たちに向かってイエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」と語りかけられます。あなたに特別な能力があって、他の人よりも優れているのだからこうしないということではないのです。神さまから見れば、あなたは無条件に愛されるべき存在、あなたがた一人ひとりがかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なんだという、イエスさまの宣言なのだと思うのです。
 「山上の説教」を私たちが読む時には、こんな言葉を枕にして読んでみると、イエスさまのメッセージ届きやすいのではないでしょうか。「神さまはあなたを大切にしてくださっている。だから〜しなさい」「神さまはあなたを地の塩、世の光として大切にしてくださっている。だから〜しなさい」「あなたはもう赦されて、神さまの子として大切にされているのだから〜しなさい」と読めば、難しいように思えることでも、受け入れやすく思えないでしょうか。
 現代の社会の中では、「おまえはダメだ」とか「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなっても知らない」、そんなメッセージが職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交ってしまっている現実があるかも知れません。そんな中で、イエスさまの「あなたがたは地の塩、世の光だよ」という、心も体も抱きしめられるような温かなメッセージが響いてきます。この言葉を、わたしたちの周りの、どれほど多くの人が必要としているでしょうか。私たちもこのイエスさまの言葉を他の誰かに届ける者として招かれています。
 イエスさまは2000年以上前、このメッセージを伝えるために、熱い眼差しをもって一人ひとりに寄り添い、その貧しさや苦しみを共に背負って、その人の中に塩味や光の輝きを見いだし、再び立ち上がる力があること確信して、あなたは本当に神さまの子なんだよ、わたしの兄弟・姉妹だと語りかけていかれました。私たちはそのイエスさまの姿を、福音書を通して見つめ、その後ろに従いたいと願っています。頑張って塩味を出そうとしなくても、無理をして周りを照らそうとしなくてもよいのです。神さまは、私たち一人ひとりを素敵な「塩」や「光」として見ていてくださるという、素敵なメッセージを今日の福音書から受け取りたいと思います。私たちの愛を蓄えるキャパシティーは無限大ではないと思いますので、たくさんたくさんイエスさまの福音を受け取れば、その愛が自然にあふれ出し、周りの人にお裾分けできるようになれば…と淡い期待を抱きつつ。