司祭 マーク シュタール
今日の旧約聖書(アモス書3:1−8)は、アモス書のよく知られた箇所が読まれます。「まことに主なる神はその定められたことを僕になる預言者に示さずには何事もなされない。」「主なる神が語られる。誰が予言せずにいられようか。」
予言の重要性を続けて、パウロは個人的なアプローチを述べています(コリントの信徒への手紙一1:10−17)。「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」
そして、福音書(マタイによる福音書4:12−23)では、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ。」その後、イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われました。
これらのみ言葉は、今が顕現節であることを改めて思い置かせます。顕現という言葉はギリシア語のエピファネイアから英語のエピファニと言いますが、ギリシア語の元の意味は「光に照らす」という意味です。近代にこの言葉は英語では、突然何か考えなどが現れる場合に、一般に使われます。
この前の季節、ある礼拝で「降臨節あるいは降誕節は、キリストの誕生を期待を持って待ち望む時です」と話しました。そして、自分の中にキリストが初めて現れた時のことを思い出しましょうと言いました。この大事なことを記念する季節であるのに対して、今の顕現節はその次のステップにあたります。アドベント、クリスマスに続く顕現節は三人の博士がそうしたように世界の人々にキリストが現れたことを知らせる季節です。
残念ながら、私たちの日々の生活の中で、何かが劇的に現れたり、指し示されたりすることは、そう滅多にありません。より厳密に言えば、自分にとって大切なものを感謝して受け入れたり、発見したりする時、私たちは劇的なインパクトを持って訪れるものとつい思いがちです。神様の最大の顕現、言い換えれば、神の子がこの世に現れたことは別のことを意味しています。顕現節は自分自身の中にキリストがお生まれになった事ではなく、この世にキリストがどのように現れているかを考える時だと言えます。しかし、私たちがキリストがどのように現れているかを考える時、この京都教区だけを考えたら、それは足りないと思います。私たちは平和の国や偉大な社会に住んでいると思うかも知れないけれども、私たちが無視していることで次のステップを踏むことをも妨げてはいないでしょうか?我儘や無関心が広がり、私たちの沈黙が神様の声をさえ遮っているのではないでしょうか?
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