司祭 ヨハネ 黒田 裕
み子が再び来られるまで
【マラ3:13−20b、23−24、Uテサ3:6−13、ルカ21:5−19】
教会のカレンダーは降臨節が近づいてきました。幼稚園でもクリスマスの準備に徐々に入っていく頃でしょう。また、教会のそれとはズレるかもしれませんが、巷も次第にクリスマスの装いとなってきます。さらにあと2週間もすれば師走を迎え、一年の終わりを迎えようとしています。
さて、クリスマスという喜びのときを迎える、というのは嬉しいことですが、毎年この時期になりますと、緑(一般)の期節以上に悩まされるのは、この、聖書日課です。なぜならこの時期には、終わりの時、終末の時、に関わる聖書箇所が多く選ばれているからです。
もちろん他の箇所が決して説教を作りやすいというわけではありません。しかし、あまりにも未知で、想像しづらい箇所が続きます。その上、救いと裁きとが表裏一体という教えのため、理解すること自体が困難ともいえます。それだけに、ここから福音つまり良き知らせ、グッド・ニュースを汲みとるのもまた困難だと言わざるをえません。
とはいえ、結論を先取りするようですが、注目したいのは本日の特祷です。ここの冒頭には「主よ、どうか主の民の心を奮い立たせてください」とあります。特祷には、その主日の礼拝の主題が語られます。ですから、本日の主題は、私たち神の民の心を奮い立たせてください、という願いと祈り、ということができます。したがって、本日の日課はいずれも、私たちの心を奮い立たせるような箇所が選ばれています。不安や、時に絶望、疲れや意気消沈している心への励ましとなるみ言葉が選ばれているのです。それが今日の、旧約、使徒書、福音書です。
そこで、ざっとそれぞれの日課を見ていきたいと思います。すると、とても興味深いことが分かります。3つの日課を読み比べてみると、それぞれに、ある人間観が語られているということができるからです。
というのも、今日の箇所はいずれも「終わりの時」に対して、いま現在をどう生きるかについて、それぞれ三者三様の人間の姿が見られるからです。それらを旧約、使徒書、福音書の順番に一言で言い表すと次のようになります。まずは、待ちくたびれてしまった人々、それから、能天気な人々、さらには現状に満足している人びと、です。
まずは、待ちくたびれてしまった人々、です。預言者マラキの時代の人びとです。紀元前6世紀半ばを過ぎてバビロン捕囚から解放されたイスラエルの民でしたが、この世紀の終わりに近づくと、熱望していた神殿が再建され、人々は歓喜に湧きます。
ところが、待てど暮らせど、約束されていた栄光がやって来ないのです。人々は待ちくたびれてしまいました。信仰への熱意は冷め、自己中心的な生き方が広がって、礼拝も形ばかりのものになっていってしまうのです。そこでは「自分の願望を中心に生きたほうが得ではないかという思いが大きな誘惑になっています」(雨宮神父)。
これは現代を生きる私たちクリスチャンにとっても言えることなのかもしれません。現代では自己の幸福を追求するのは権利であり、それ自体を非難する人はありません。そればかりか、特に宗教を信じなくても、周囲との友愛や友情の関係を保ち、幸せな人生を送っているひとは、ごまんといるようにみえます。そのなかでキリスト教信仰を維持するのは、決してたやすいことではありません。
先ほどふれたこうしたイスラエルの状況のなか、マラキが語るのが13−15節にある皮肉を込めた批判と、その反対に、16節以下の、的を得た神と人間との関係です。待ちくたびれてしまう人間像とそうではない人間像の違いは、ここでは、主への畏れ、です。
この畏れは、これ自体が励ましでもあります。なぜなら、ここには、主以外のものは畏れない、という含みがあるからです。そして、主を畏れる人々を、神さまは、「宝」だ、とさえ仰るのです。
最後には決定的な励ましと慰めのみ言葉が来ています。それは、終わりの時が来る前に預言者エリヤを遣わす、という預言です。エリヤは、「父の心を子に 子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって この地を打つことがないように」この世に来るのです。この預言は言うまでもなく、遠く、イエスさまの十字架と復活を指し示しています。
次には使徒書、能天気な人びと、です。ここには「怠惰な」人びとが出てきます。しかし、これは単なる怠け者で仕事をしない人、を指すわけではありません。彼らがどのような生活をしていたのか、詳しいことは今では分かりません。しかし、少なくとも「主の日は既に来た」と、終わりの時がもうやってきたと考えている人びとであったようです。
彼らによれば、終わりの時はもうやってきてしまったのだから、この世の普段の仕事などすべきではない、と考えたようです。あるいは、祭り男のような性格のひとであれば、終わりの時が来たと思って熱狂して、この世の仕事どころではない、と「余計なこと」(11節)ばかりしていたのかもしれません。
そして福音書です。イエスさまの時代の人びとです。この時代の人びとは、立派で壮麗なエルサレム神殿に、神さまとの約束のしるしを見ていました。しかし、そのいっぽうで、現実には、この神殿を拠点として、様々な不正や庶民を苦しめる政治・経済が行われていたのは言うまでもありません。
そこで、その実相を見抜いたイエスさまが語られたのが「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)とのみ言葉でした。彼らは、神殿の意匠の豪華さに永遠を見ていましたが、イエスさまは、神さまと人との関係においては、目にみえるものの方がむしろ移ろうものであることを明らかにされたのです。
これは、ある部分では、諸行無常といった人生観や、古代ギリシャの「万物は流転する」といった哲学にも通ずるところがあります。しかし、決定的に異なるのは、明確な、絶対的な他者と人間との関係です。それはもちろん神さまと人間との関係です。人は、神さまとの関係のなかで生きているのです。
そして、それに続いて、人間に起こりうる、あらゆる悲惨で破滅的な事象が語られます。20世紀後半の、核兵器の脅威という状況のなかでも既にそうでしたが、東日本大震災による原発事故を経た世界、ロシアによるウクライナ侵攻と核使用の危機の時代に生きる私たちにとっては、この破滅的な状況は、あらためて私たちにとってリアルな現実として迫ってくるものがあります。
また、迫害に関するみ言葉も、恐怖に襲われます。しかし、仮にこの世の裁きの座に引っ張って行かれても、それはむしろ「証しをする機会となる、だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」(13節)とも語られています。
私はこれまで、この箇所には、ただただ恐ろしさを感じていました。しかし、今回あらためて「だから」という言葉に目がとまりました。自分が迫害にさらされ、なお勇敢に証しをしうる、とは思えません。が、しかし、目に見える艱難は、ただ艱難であるだけでなく、別の新しいことが明らかとなる機会でもあるのだから、前もって準備をしなくても良い、とするならば、それもまた大きな慰めではないかと思えたからです。私たちは、先どりした不安や絶望感に苛(さいな)まれがちです。しかし、もう準備しなくても良い、と思えるのは幸いではないでしょうか。
そして最後に、イエスさまの「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」とのみ言葉です。
先ほどから旧約、使徒書、福音書から、ある人間観を見てきました。それはいくつかの形をとりながらも、いずれも、絶望する人間のありようです。待ちくたびれて自己中心的に生きるのも、すでに終わりが来た、と放縦にふけるのも、豪華な意匠に永遠を重ねようとすることも、いずれも虚しく絶望の形式に違いありません。これらはすべて私たちのなかになんらかの形で存在する絶望感の根っこではないでしょうか。
しかし、そんな破滅への不安と、希望を失い、死によって完全に虚無に服することへの怖れにつぶされそうな私たちの心に、さきほどのイエスさまのみ言葉が、慰めと励ましとして、入ってくるのです。あるいは、「忍耐によって」というところに、不安や自力に頼るありかたを重ねてしまうかもしれません。
しかし、ここで私は、私の恩師の言葉を思いだします。私の恩師、関田寛雄牧師は、かつてご自分の恩師である浅野順一先生(この方は戦後の旧約学を牽引された方でもあります)から、こんなことを言われたことがあるそうです。集会が終わって雪の降る夜の帰り道、浅野先生が若い関田先生に語りかけました。「関田君。どんなことがあっても礼拝をし続けような」。私はここに、感謝聖別の終わりのほうにある「み子が再び来られるまでこの祭りを行ないます」という祈祷文を思い起こします。
その段落全体は、こうなっています。「天の父よ、私たちはこのパンと杯によって、み子がただ一たび献げられた十字架の犠牲を記念し、栄光ある復活、昇天を宣言し、み子が再び来られるまでこの祭りを行ないます」。
忍耐、というと、しんどいですね。怖気づく気持ちも起こってきます。しかし、聖餐式を通して私たちは、この忍耐を、喜びと、主への感謝と賛美のうちに生き抜くという恵みが与えられています。そのことを今ここで、私たちは皆で分かち合って、私たちが恵みへの感謝に向かって生かされている、ということを共におぼえたいのです。
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