司祭 パウロ 北山和民
すべての人のしもべとなり、わたしたちのために命を捨て、死なれたみ子のように、わたしたちにも隣人のしもべとなる心をお与えください。(特定25特祷)
本日は「社会事業の日」なので、特に様々な矛盾やジレンマの現場にある人々に、日課や特祷を黙想するように、ナザレのイエスの姿、即ち「なぜアウトリーチ(手を差し伸べる)なのか」を黙想するように招いていると思う。
介護や教育の現場は今日、政治のまずさもあって大きな危機(運営のみならず人間の魂も)の中にある。わたしたちは(本日のエレミヤ14:7〜9のように)「問われている」存在なのです。「理事長」は仕事の9割リスクマネジメントで、しばしば謝罪の現場では必ず「謙虚に、真摯に」と言う。「人を見下さず」に日常の奉仕事をこなすこと、うぬぼれの故の決断失敗をしないことが…何と難しいことか。そんなときイエス様は「気を落とさず、絶えず祈らなければならない(ルカ18:1)」とわたしたちを招かれる。
本日のルカ福音書は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して…(18:9)」と、逆説的にわたしたちを招く。そして、神の前に義(罪の赦し即ち尊厳の回復が実現された状態)とされたのは、「神殿に近づき」心の中で「正しい人間であり、断食、献金していることを感謝」しているわたしたちではなく、「神殿から遠く立ち、自ら罪人と、悲しむ」徴税人であると語る。これは徴税人こそイエスの先取であり、胸打つ時こそが「祈りの時」だと教える。
しかし今ここに聴いている私たちも、「分かち合うこと(祈り、悔い改め)」に招かれている(ルカの神学)。先週から来週(ザアカイも徴税人)にかけて、ルカ福音書は、自己満足や保身を突破して分かち合いへと変わる勇気こそイエス様(信仰)だと気づかせる。つまり「いわゆる悲しみの現場の逆説や奇跡」は多くの奉仕者が語るが、それは失敗と落胆の現場に思いがけずイエス様を発見したこと。これが信仰。だから教会は、今は縁のない人も、イエス様を知るために、旧約聖書(本日のエレミヤ14:7〜9)を伝えねばならないのです。社会事業に携わる全ての人に主なる神様のお守りがありますようにお祈りします。
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