2022年10月2日     聖霊降臨後第17主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「正しき人はその信仰によって生きる。」【ハバクク書2章4節】

 暑い夏も去り秋の気配を感じるようになると、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざを思い浮かべます。熱かったこと、つらかったこと等を忘れて前を向く。忘れることは時にはよい面があるかもしれませんが、人は暑さをしのいだ木陰の有難さや人から受けた親切を忘れる特性も持っています。しかし、人が大切なことを忘れず、その恵みの中で生かされ感謝のもとに日々過ごすことができたら、世界中の人がどんなにか幸せに生きられるものかと考えさせられます。

 旧約聖書日課の預言者ハバククが活動した南ユダ王国は紀元前587年に、バビロニア帝国によって滅ぼされてしまいます。ハバククの目の前に広がる現実は、律法はすたれ何の力もなく、正義が失われて不法が横行する。力あるものが猛威を振い、正しい者、弱い者が虐げられていく。そのような社会の中で、ハバククは助けを求めて叫び、不法を訴えますが、神様は具体的には何も答えてくれません。正義がねじ曲げられた社会がいつまで続くのか、なぜこんなことが許されるのか、彼は問わざるを得なかった。このような切羽詰まった状態の中で、信仰を捨てて自らも武器をもって現実の敵と戦うという道を選ぶこともできるでしょう。逆に、現実から目をそらして内なる信仰の世界に閉じこもるという道を選択するということもできる、しかし、ハバククの選んだ道は、信仰と現実のどちらも否定せず、なぜなのか、どうしてなのかと神様に問いかけるという道でした。このようにして神様に問いかけていくことは、不信仰というよりは、神様の示される道を歩みたいという信仰の現れだと言えます。そのハバククの真摯な問いかけに、神様はこうお答えになりました。高慢な者の心は正しくはあり得ない。しかし、神に従う者はその信仰によって生きる。このように言って、その信仰に立ち続けることを促しています。

 また、使徒書において、パウロは、年若き宣教者であり、教会での司牧者として働いていたテモテへ手紙を送りました。当時パウロは迫害を受け、苦難の中で殉教の死を迎えようとしていた状況でした。テモテも司牧に疲れ、力を失っていた頃、そのような遺訓というべきパウロの手紙で、自信の信仰体験から、自らの力に頼るのではなく、イエス・キリストへの信仰を通してすでに与えられている神様の賜物を再び燃え立たせるようにと、テモテへ勧めます。それは決して臆病の霊ではなく、与えられた力と愛と思慮分別の霊、すなわち内なる聖霊が彼を守ると勇気づけます。

 さらに、福音書でイエス様はからし種のたとえを持って、こう言われました。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう」。種の中でも最も小さいからし種でも成長すれば3メートルにもなって豊かに実をつける。同じように、たとえかたし種一粒のように小さな信仰であっても、本当に、神様の力と支え、導きにより頼むならば、人知を超えた神様の出来事が起る。深く根の張った私たち人間のかたくなな心をも動かすことができる。このようにして七の七十倍赦す愛も、信仰によって「神様のみ業」の中で可能となってくることを言っておられます。

 主の家族である私たちも1週間のうち1回は大切な福音に接し、神様のことを忘れないよう思い起こし、からし種のような小さな信仰でもいい、神様にしっかり結びついて日々歩みたいと思います。