司祭 セオドラ 池本則子
苦しんでいる人たちに心を向けないことは罪
この世の社会構造の中には様々な人が存在する。私たちはそんな世界の中で、どの時代にどこの国でどのような環境の中で生まれるかはわからない。誰一人として自分で時や場所を選んで生まれることはできない。生まれた時代や環境によって幸福だったり不幸だったりする。もちろん本人の努力も必要だが、それだけではどうにもならないことも多く、自分の環境を受け入れ、その中でどのようにより良く生きていくかを考えて過ごさなければならない。そのためには多くの人の助けが必要となることもあるし、人の手助けをすることも必要であろう。
ルカによる福音書第16章19節から31節に記されているイエス様のたとえ話には、対照的な環境にある2人の人物が登場する。毎日高価な衣装を着て贅沢に遊び暮らしていた金持ちがいた。そして、その金持ちの門前に横たわり、食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていたできものだらけの貧しいラザロがいた。この2人がある時、死んだ。ラザロは天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちは葬られた後、陰府でさいなまれていた。金持ちははるかかなたの宴席にいるアブラハムとラザロが見えた。そこで、金持ちはラザロをよこして炎の中でもだえている自分の舌を冷してもらいたい、とアブラハムに頼んだ。しかし、拒否されてしまう。
さて、この金持ちとラザロの生前と死後の状況を比べてみよう。2人の生前と死後の状況を比べてみても、またそれぞれの生前と死後の状況を比べてみても、すべてが全く対照的な状況であった。この状況だけから考えると、生前天国のような暮らしをしている人は死後に地獄の苦しみを味わい、生前地獄のようなつらい日々を送っている人は死んだら天国に行ける、と勘違いするかもしれない。しかし、この世の過ごし方にかかわらず、すべての人は死んだら天国に行く、というのがキリスト教の信仰である。
それでは、このたとえでイエス様が教えようとされたことはどのようなことだったのか。それは、金持ちのラザロに対する心である。金持ちが死後に地獄の苦しみを味わっているのは、決して高価な衣装を着て贅沢に遊び暮らしていたからではない。金持ちは門前に横たわっているラザロに気がつかなかったのであろうか。いや、そんなはずはない。気づいていたのだ。しかし、見て見ぬふりをした。無視していたのだ。もし、ラザロの状況に対して、少しでもまなざし・思いを向け、寄り添おうとする心があったなら、陰府でさいなまれることはなかっただろう。
イエス様はいつもこの世の社会構造の中で小さくされた者、弱くされた者にまなざしを向け、寄り添ってこられた。病人や体の不自由な人を差別したり排除したりする人たちに、すべての人は平等であることを教えてこられた。今、この世界にも人間らしい生活のできない困難な状況に苦しんでいる人たちが数多く存在する。私たちはそのことにどれだけ気づき、心を・まなざしを向けているだろうか。苦しんでしんでいる人たちに心を向けないこと、無関心でいることは罪である。直接には何もできないかもしれないが、私たちは祈ることができる。まずは身近なところから、そしてできれば世界の隅々にいたるまで、人々の暮らしに関心を持ち、苦しんでいる人たちが少しでもその苦しみから解放されるよう祈っていきたい。
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