司祭 パウラ 麓 敦子
心イエスに在り【ルカ14:25〜33】
この数年、マインドフルネス瞑想というものが小さなブームになっている。ストレスを軽減し、心身を整えることで、本来の自分の在り方を回復しようとするこの瞑想は、「今、ここ」の自分の呼吸、体の感覚もしくは周囲の音などに心を集中させるという方法で行われる。単純なようでいてこの瞑想、非常に困難を極める。いざ始めてみると立所に様々な雑念が湧いてきて、「今、ここ」から離れ、心ここに在らずの状態に陥ってしまう。湧いてくる雑念の大半は、未来への不安、過去への後悔、他者からの評価や他者への評価である。マインドフルネス瞑想を通して、「今、ここ」の瞬間瞬間の自分を生きることは、なんと難しいことなのかを痛感させられる。
イエスは、ご自身の弟子であることの条件として、「だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」と教えておられる。これは換言すれば、「自分にとって身近で大切な人々や自分の命よりも、イエスの方をより愛してイエスにこそ拠り頼むものでなければ、イエスの弟子とは言えない。」「この世の物に拠り頼むのではなく、イエスに全てを委ねて拠り頼むものでなければ、イエスの弟子とは言えない。」ということになるだろう。
また、イエスは言われる。「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」と。「自分の十字架を背負ってついて行く」とは、「本当は、十字架につけられなくてはならなかったのは罪なきイエスではなく、この罪深いわたしの方だったのだという自覚を心に刻みながらついて行く」ということなのではないだろうか。ここでわたしの罪とは、すぐに神から心を離し、イエスなど知らないと自分や他人や金品の力に頼ることを優先しようとするわたしの心の有様のことである。
イエスの十字架上での死と復活は、ただ一度きりの出来事だ。それに対してわたしたちは、戒めても戒めても容易に陥ってしまう「心イエスに在らず」という罪を、日々この手で自分の十字架につけながら、イエスの後に従って行くことを求められているのではないだろうか。
イエスの死と復活により、わたしの罪が赦されたことへの感謝と、苦しみは必ず喜びへと変えられることへの信頼を心に抱いて、愛に満ちたイエスの生涯に心を集中させて歩み続ける時、そこには「神の御心に敵う本来のわたし」との出会いが待っているのではないだろうか。
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