司祭 アントニオ 出口 崇
狭い戸口から入るように務めなさい
イエス様の十字架の死とはそもそも誰のためなのか。それは間違いなく、すべての人を救うためでした。神様から遠く離れていった私たち人間一人ひとりを、誰一人かけることなく救うためでした。
『狭い戸口から入るように務めなさい』
何か「行列のできる」戸口、神の国に入りたいと思っている私たちが、その狭き門に長蛇の列を作っているイメージですが、この狭い戸口とは、ひょっとしたら、私たち一人ひとりに一つずつ用意されている戸口なのではないでしょうか。
私たち一人ひとりの心の中にある、狭く深く、暗いところでイエス様が待っていてくださる、出会ってくださっている。
自分自身の見たくない部分、ふたを閉ざしている心の薄暗い場所に、すべてをご存知のイエス様がおられ、釘で打ち抜かれた手を広げて待っていてくださる。
人数制限でもなく、選びでもなく、私たちの心の中に用意されている狭い門。
私たち一人ひとりを作られ、ご存知の神様が、私たちの生身の大きさにぴったりの戸口を用意してくださっています。
私たちは何度もその戸口に入ろうとしますが、なかなか抱えているものが色々ありすぎてその中に入れない。それでもなお、「狭い戸口から入るように務めなさい」と戸口の前でイエス様が招いてくださっている。抱えているものをすべてイエス様に委ねられたらと思います。
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