司祭 エッサイ 矢萩新一
今日の福音書で、「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:34、聖書協会共同訳)とイエスさまは語られます。それはすなわち、私たちの価値観がどこに基づき、何を大切にしようとしているのかが問われています。また「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。」と、今日の使徒書(ヘブ11:1)に記されていました。私たちは、すぐに結果の見えるもの、目で見て耳で聞いて確認できることを求めます。その目に見える現実、日々の生活に対処していかなければ生きていけないのも事実ですし、仕事や育児、看病や近所づきあい、パートナーとの関係など、日々の生活の中で、一つでも手を抜いてしまうと、生活の基盤が崩れて人間関係がうまくいかなくなってしまうのではないかと心配になります。しかし、あまり頑張りすぎてしまうと、周りが見えなくなり、疲れてしまいますし、どんどん自己中心の思いが強くなり、現実を逃避しようとしてしまうことさえあります。
イエスさまは、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)と宣言されます。神さまは、小さい者に勇気を与え、ご用のために生かし用いてくださり、私たちのしんどさの中に、思い悩みの中に光を灯して希望を与えてくださるのです。「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。」という言葉には、今は出口や方向が見えないけれど、神の国の到来を信じて心の備えをする勇気が与えられます。
神の国では、主人みずからが「腰に帯を締め、…僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれ」ます。神さまが主催される宴が用意されていて、その宴をすべての人と共に祝うようにと、招かれています。神の国がいつ来るのか、それは神さまにしか分かりませんが、その時がいつ来てもよいように、腰に帯をしめ灯をともして準備していなさいと、イエスさまは言われます。腰に帯を締めるのは長い衣の裾をたくし上げて動きやすくするため、灯をともすのは暗闇の中で足元を照らすためです。
いつも気を引き締めていなさいと言われますが、日常の種々の忙しさの中でいつも緊張して待っているのはつらいかも知れません。いつ帰ってくるか分からない主人を待つ、いつ来るか分からない神の国を信じて待つということは、イエスさまの人間としての生き様を見つめながら、今の私に与えられた時間を大切にして生きるということです。そのために私たちはこうして毎週毎週、聖書を読み、聖餐の恵みにあずかっています。神さまは私たちの小ささの中に、貧しさ中に、困難さの中に必ず共にいてくださいます。必ずしも自分が望むような方法で手助けをしてくださるとは限りませんが、必ずその道を示してくださいます。このことを確信し、腰に愛の帯を締め、様々な現実を神さまの光である灯で照らし生きていこうとするのが、私たちキリスト者の信仰であり、使命であることを覚えていたいと思います。
強くあらなければと、肩肘を張って生きていくのはしんどいことです。至らなさや弱さも含めて神さまにお委ねしていくとき、見えないものを確証できる強さが与えられていくのではないでしょうか。そんなことを思うとき、今日の福音書の冒頭の「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」という、イエスさまの言葉が響いてきます。心を豊かにさせる宝を求め、見えないものを確証していく道を力強く歩んでまいりましょう。
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