2022年7月24日     聖霊降臨後第7主日(C年)

 

司祭 マーク シュタール

 今日の福音書では、弟子たちはどうしたら神様に祈りが届くのか真剣に考えていました。使徒書では、パウロがコロサイの信徒へ手紙を送り、歩き始めばかりのコロサイの人たちがキリスト教徒として、誤った方向に向かっていると諌めます。イエスもパウロもメッセージを伝えなければ、という使命感に溢れています。では、旧約聖書の創世記はどうでしょうか。

 今日の創世記では、神様とアブラハムとのやりとりがあります。ソドムとゴモラの非常に重い罪に対して、天罰が下り、神様が滅ぼすというものです。それを文字通り読むこともできますが、アブラハムはソドムを擁護したい衝動に駆られます。多くの民が蛮行を働いても、少数の善良な民がいるはずだと。さて、今日を生きる私たちはこれをどう読むべきでしょうか。私たちは、果たして人のことを自分のことのように心配しているでしょうか。あるいは、自分のことを真っ先に案じ、自分に理不尽な態度を示す人に天罰が下ることを願ったりしてはいないでしょうか。他人が厳しく罰せられるとひそかにほくそ笑んではいないか。少数派の他者の自己犠牲的な良い行いのお陰で、自分たち多数派が罰を逃れて、胸をなでおろしてはいないか。ここのみ言葉では、気づきにくいですが、そのような問いが投げかけられていると思います。ここで出てくる神様は、罪深く堕落した二つの町は徹底的に滅ぼすしかないと言っています。厳しい旧約聖書の古い掟や秩序を垣間見ます。アブラハムは神様のみ心に従って幕引きをすることもできたでしょう。しかし、神様と真剣に向き合う手本をここでアブラハムは示しています。イエスが弟子たちに説いた行いと同じです―神様としつこく大胆にひたすらに向き合う、神様とのパイプを常に開いておく、自分のためにも人のためにもそれを行う。

 私はここの創世記でさらに取り上げたいことがあります。それに触れる衝動に駆られます。アブラハムを違う人物と重ねてみるのはどうでしょうか。例えば、Woody Allen(ウーディー アーレン)※です。やや滑稽なここでの問答、見えてくるのは昔から引き継がれているユダヤ人の知恵とユーモアです。ここの創世記の描写はとても印象的で、笑いを禁じ得ません。この物語をとっても強く、重要なメッセージが含まれていると文字通り読むことも可能です。しかし、想像力を働かせ、アブラハムを Woody Allen(ウーディー アーレン)に置き換え、彼と神様とのやりとりを想像すると、とてもリアルで人間味溢れる面白い内容になります。

 この少し後の21章6節では、アブラハムの妻サラはこのように言っています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞くものは皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」。もし、皆さんも普段とは違う自分を演じなければいけないというプレッシャーを感じたり、自分が望んだ結果が見えずフラストレーションが溜まることがあったりすれば思い出して下さい。アブラハムとサラの笑いのセンスを、そして、イエスが伝えた祈りを唱えましょう。主に感謝。


※Woody Allen(ウーディー アーレン):アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、小説家。ギャグ・ライター、コメディアンとしても知られる。(註:情報発信委員会)