司祭 ヨシュア 大藪義之
ぼぉ〜っと座ってんじゃねぇよ!〜もしみんながマリアさんだったら?〜
その昔、ある聖職按手式のリトリート。司祭や執事になるために大切な黙想をするために数名が集まったが、その中に黙想指導を受ける者であると同時に、その黙想の家でのプログラムのお世話係をするはめになった者がいた。
まずはオリエンテーションを軽く済ませ、いざ黙想タイム。指導者からの霊的書物の朗読やお話、聖職になるための心構えや礼拝の所作などの時間があり、朝昼夕の食事が済むと、他の黙想者は早々に自分の部屋に戻るが、片付けの後には「黙想の家にいるおしゃべりなおばさん」と次の段取りを打合せ・・・。2泊3日を終えるとみんなを車に乗せ会場の教会まで運転。いやはや大切な黙想はできたのだろうか?
ルカによる福音書10章38節以下はいわゆる「マルタとマリア」の物語。多くの人がご存知のお話で、やれ「私はマルタだわ」とか「やっぱりマリアさんみたいにならなければね」とか、礼拝の後に話が弾む箇所でもある。
イエス様と弟子たち一行がある村に入った。たぶんその話がたちまち村中に広まって、「マルタという女がイエスを家に迎え入れ」ました。彼女には姉妹(妹なのか姉なのか?)がいて、普通は弟子たちだけが座れるイエス様の足元に座って、「その話に聞き入っていた」そうな。
マルタさんはイエス様を迎え入れたその責任感からか「もてなしのためにせわしく働いて」いました。しかし、マリアはぼぉ〜っと座って話に聞きっています。次第にマルタの不満は募り、「わたしだけに・・、手伝ってくれるように・・」とイエス様に訴えたのでした。(どうしてマリアに言わなかったのかな?)
そんな「多くのことに思い悩み、心を乱し」イライラしたマルタにイエス様は(おそらく)やさしく「マルタ、マルタ」と声をかけられました。
「マリアの選んだ良い方、それを取り上げるな」と。
もしみんながマリアさんのようにイエス様の足元に座り、み言葉に聞き入ってしまったら、どうなるのだろう?(腹ペコには気になるところ)
反対にマルタもマリアも「せわしく立ち働いて」しまったらどうなるのだろう?イエス様を迎え入れた目的は何だったのか?
「せわしく立ち働く」という言葉は「周りへと引かれる」という意味だそうだ。そのせわしさの遠心力で中心から引き離され、大切なものから遠ざかってしまう。マルタさんは「イエス様をもてなす」ことをずっと中心においておけばよかったのにね。
う〜ん。あの時のお世話係さんは、きっと今もせわしく立ち働いているのかな?時にはマリアさんのように、ぼぉ〜っと、イエス様の言葉に身をゆだねていいのだけれどね。
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