2022年7月10日     聖霊降臨後第5主日(C年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「隣人になる」

 「善きサマリア人のたとえ」は非常に有名なイエスのたとえ話です。小さな子どもから大人まで、誰もが知っているイエスのたとえ話です。ある日本語聖書にはこのたとえ話は「よきサマリヤ人」というより「サマリア人に親切にされた男のたとえ話」という方が正しい、と書かれていました。また、「善き」という時にはその対立軸である「悪い」ということをわたしたちは想像するかもしれません。イエスのたとえ話は「善悪」を説くものでなく、「神の国」についてのたとえ話であることを思う時、「善き」という言葉に引きずられず、このたとえ話に接する大切さをも思います。
 さらに、このお話は、最後の「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉がクローズアップされて、人に親切にしましょう、とか、困っている人を助けるのがキリスト教の大切な在り方だと理解される傾向があります。もちろん、人に親切にすることや困っている人を助けようとすることは間違っていません。けれども、イエスはこのたとえ話を通して、そのような道徳的、教訓めいたことを伝えようとされたのでしょうか。
 イエスを試そうとした律法の専門家は、律法に示されている大切な神の戒め、教えは理解していました。「神を愛し、隣人を愛すること」が何よりも大切だと理解していました。このたとえ話に登場する祭司やレビ人も同様です。律法の教えはよくよく理解していたがゆえに、強盗に襲われて倒れている人は汚れた存在としてうけとめ、その人に近づくことも触れることもしなかったのです。それは律法に準じた彼らの行動でした。けれども、律法に準じる必要のないサマリヤ人は、傷ついて倒れている人を見つけて、「憐れに思い」「近づいて」「その傷に触れ」介抱したのでした。「憐れに思う」と訳されている言葉は、「共に苦しむ」という意味をもちます。このサマリヤ人は、傷ついた人を見て自分自身の心が痛んだ、その傷みゆえに、相手が誰であろうと手を差し伸べずにはいられなかったのではないでしょうか。
 「隣人とは誰か」という律法学者たちの問いに、イエスは「誰が隣人になったと思うか」と問い返されます。「隣人になる」とは、何か固定されたものではなく、憐れみをもって関係性をつくりだすものである、ということが示されているのです。そして、その関係性の根本には、神様が先ずわたしたち一人ひとりを憐れみ、共にいてくださるという大前提があります。その憐れみゆえに、わたしたちもまた、相手の痛みに心が突き動かされていく者でありたいのです。そのような営みを通して神の国が実現することを願い祈りたいと思います。