司祭 クレメント 大岡 創
今日の福音書(ルカ福音書10:1−12、16−20)は、イエスさまが72人の弟子たちを町や村に遣わされる物語です。
言うまでもなく弟子たちが遣わされた目的は、平和を祈ることと神の国の到来を告げることです。イエスさまは、ある家に入ったら、そこで「この家に平和があるように」と言いなさい。と命じておられます。どこかの家を訪ねて「シャローム」と挨拶するわけですが、しかし単なる挨拶に終わるのではなく、「主の平和」と言って神さまの祝福を祈ることが教会の宣教です。
祈祷書の中に「病者訪問の式」というお祈りがあります。その初めのところに、司祭は病気の人を訪ねたら、家や病室に入るときに、まず「平安がこの家にありますように」と祈るように指示されています。病気の時というのは、様々な不安を感じたり、孤独に囚われたりすることがあるものです。決して簡単なことではないかもしれませんが、その人の気持ちをやわらげたり、回復を祈るということ・・・これも私たちに託された宣教の働きだというのです。
イエスさまが弟子たちに命じられた心得の中に、「その町の人をいやし」なさいということがあります。病人を癒すことは、神の国の到来のしるし。「神の国があなたがたに近づいた」という宣言は、病気になって色々な不安を抱えるような状態にあっても、あなたは主の恵みと祝福のもとにあるということを告げる言葉です。神さまが共にいてくださることを示すことが、イエスさまから委ねられた宣教の働きでした。そして、私たちにもその使命が委ねられています。
しかし教会の中でも、平和の挨拶を交わすのに気が進まない時があったりいたします。逆に言えば、苦手な相手とも「平和の挨拶」を交わすことによって和解のしるしを得ようとしているのかもしれません。私たちが遣わされる場は、一人ひとりの生活の場、そこが遣わされる場です。それぞれの場で、神さまが与えられる平和を生きることが、私たちの派遣の目的です。まわりの人々の命が豊かなものになるように、神さまの祝福を祈り合い、人々に様々な勇気を与え続けていくことが、私たちがぞれぞれの場においてなすべき働きです。そのために私たちは招かれています。私たちの交わりが、これからも平和を祈り合い、祝福を祈り合うものとなりますように。
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