2022年5月22日     復活節第6主日(C年)

 

司祭 アンデレ 松山健作

【ヨハネによる福音書14:23−29】

 引き続くコロナ禍で変化したことは、オンラインを駆使して地球の裏側まで、さまざまな活動や働きに参与できるようになったことです。またその記録も比較的早く配信され、世界各地の情報が手に入りやすくなりました。オンライン時代の私たちは、その一方で情報過多に陥っているとも言えるかもしれません。
 それはさておき、世界では武力による争いが続いています。ウクライナ情勢について報道されない日はありません。ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まって、すぐの3月に催された韓国基督教教会協議会(NCCK)が開催したウクライナの平和を祈る集会の記録を見ました。
 この平和を祈るための集会で共有されていたメッセージの中に「戦争より大きな罪はない」ということが、朝鮮戦争と重ね合わされ語られていました。これについて語られたのは、ロシアに関係のある韓国正教会のアンブロシウス大主教です。大主教は、ロシア軍の侵攻を擁護するロシア正教会のキリル総裁に対して、平和のために祈る要請をしているとのことを明らかにしました。
 イエスさまは、弟子たちとの告別の際に愛する人々に向かって「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」と教えられます。私たち人間は、神さまから愛されている存在であり、その愛に気づくときにまたその方への愛を表すことで応答します。神さまから愛されて満たされていることに気づいているならば、私たちは他者を傷つけることはないでしょう。それゆえに、この世に愛を注ぐ方が告別の際に残し与えるものは、「平和」でした。神さまに愛される者同士が、互いに神さまの愛を実感し合いながら生きるために、イエスさまが残したものです。
 「平和」(シャローム)は、ユダヤの日常の挨拶でも使われる言葉であるとともに、イエスさまが残したという意味では、キリストのもたらされる救いの実現を表します。平和の実現は、あらゆる面での充足状態を意味し、人間の至福のあらゆる要素を含んでいるはずです。しかし、私たちの現実は、いかがでしょうか。
 戦争、災害、憎しみ、恨み、蔑みなどなどによって、与えられている平和は脅かされています。この脅かしの原因は、私たちの内から出てきている何かなのかもしれません。平和への脅かしは、神さまの愛に対する脅かしであり、その愛を傷つけ、イエスさまの残した平和に反く事柄ではないでしょうか。
私たちがこの世で生きにくさを感じる時、私たちは再び神さまの示される愛に立ち返り、またイエスさまの言葉を思い起こし満たされる必要があります。そして私たち自身が満たされ、愛によって応答することで、平和が与えられていることに喜びを感じ、その実現に向かって派遣されていることを使命に生かされますように。