2022年5月15日     復活節第5主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

愛せない、だからこそ【レビ19:1−2,9−18、ヨハ13:31−35】

 「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)とイエスさまは言われます。確かにその通り(アーメン)なのですが、自身を見つめ直すと、むしろ愛せない現実が浮き彫りになってきて、そのことが多くの困難さの根にあるように思えてくるのです。それは人間の歴史全体にも言えることではないでしょうか。そして旧約日課の背景にもその問題があります。レビ19:9−10には隣人愛が示されています。収穫では刈り尽くさず貧者や寄留者のために残しておけという内容です。ここを読む度に学生時代に沖縄のある離島で聞いたことを思い出します。食品店のおかみさんは、「最近は、この島にも泥棒が出るようになってねぇ。十年前までは、泥棒なんて全くいなかった。昔は、どの家も軒先にわざと野菜や干物を置いておいたものよ。それを、困った人が取っていけるようにね。」と言っていました。
 多分それは、地域差や時間差はあれ、日本全体にも言えるのでしょう。世のなかに隙間というかゆとりがなくなってきているのを感じます。そしてよく考えてみると、この愛せない、という人間の現実を十字架は最もよく明らかにしているのではないでしょうか。なぜならイエスさまが十字架につけられたこと自体が、愛に反する人間の現実によるからです。こうして人間の深い淵を十字架は露わにします。と同時に、“愛せない”で終わらせない、というのがイエスさまの十字架でした。主のご復活とは、人間の愛せない現実を、神さまはそのままにはしておかれなかった、ということです。だからこそ、イエスさまの十字架は栄光を表わします。
 新約の語る「栄光」は一般的な「栄誉」「名誉」と同じではありません。
 旧約まで遡ると「輝き」を意味します。光り輝いて真理を照らしだす、その光によっていままで暗くて見えなかった本当のことが明らかになる、というイメージです。その「輝き」は本当のこと、つまり人間の弱さを明らかにすると言えます。栄光の輝きは人間の深淵を照らし出します。人間自身の、自分の努力のみでは愛せない、という現実を露わにします。愛せない、という現実を知るときにのみ、私たちは十字架の愛を知りうるのではないでしょうか。だからこそ、イエスさまのよみがえりが神さまの私たちへの深い愛だということに気づかされます。その時はじめて私たちは、イエスさまの与えてくださった「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に、心からアーメンと言えるのではないでしょうか。