2022年4月24日     復活節第2主日(C年)

 

司祭 パウロ 北山和民

復活物語と「グリーフケア」

 イエスはトマスに言われた「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ福音書20章29)
 復活節の福音、特に本日のヨハネ福音書は、イエスさまが弟子たちの交わり(危機の中の教会)のなかに立ち、「復活信仰とはあなたの新しい生き方にどんな意味をもっているのか?」と励ますように問いかけている。
 当時のローマ皇帝(神)は、貨幣にその像が刻まれていた。
 「見て信じるように」である。ヨハネ福音書はそんな「支配する神」が教会を迫害する時代に危機感をもって書かれた。
 現代も、フェイクニュースが飛び交い、プーチン大統領などのカリスマ指導者を、人が「見て」信じる(「見ないで信じてくれ」というアイドルはいない)時代。そして何でも「見ないと信じられない」いわゆる「可視化過剰社会」である。そして様々な危機や悲しみに際して、人はしばしば「信じたい、見たい」に応えてくれる「宗教」に財を騙し取られたりして、かえって不幸感、閉塞感を深める。
 「見ないで信じる人は幸いだ」などと言うと、現代人たちには、自由と反対の「洗脳」と誤解されそうな言葉である。しかし「グリーフケア(喪の作業)」を必要としている人たちの物語としての復活物語・福音を考えるならば、この「見ないでわたしを信じるあなたには幸い・マカリオイ」という「かけがえのない他者(死者)からの言葉」に、大きな「神の力・マカリオイ」があるように思える。最愛の人(夫?)を突然殺され、途方に暮れているマグダラのマリアたちのような人は、今のウクライナにも、教会の現場にもある。それは「主の復活の現場」だと気付き、祈り(聖餐式)を起こすのが私たちが頂戴している「復活信仰」なのだ。慰めを必要としている人に復活の主は言われる「あなたは自分だけが砕かれ悲しんでいると囚われて苦しんでいるね。悲しんでいるのは、『あの人』をあなたが愛している確かなしるし、『あの人』は愛され平安に在ることの確かなしるしなのだ。どのように蘇るのか、見て納得したいだろうが、そんな願いより大事なことは、『あの人』をわたしのように愛しているか(礼拝)を問い続けることだ。光(愛という復活の命)は闇(死・悲しみ)の中に輝くように。『闇は光に永久に勝てなかった』という確かさがいつもあなたと共にいる。」