2022年4月10日     復活前主日(C年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「修羅場の中の祈り」

  福音書に従えば、オリーブ山で捕えられたイエス様のご受難は、金曜日未明、 法廷に引き渡されたのが明け方、最後、十字架で息を引き取られたのがお昼3時と記されています。今日の福音はこの時間の出来事が綴られています。
 さて、福音にはたくさんの登場人物が目まぐるしく現れます。しかも、特徴や様子が詳しく描かれています・・・イエス様の無残なお姿、残忍な兵士たち、そして卑怯なユダヤ人の指導者たち、彼らに扇動されていく群衆・・・
 妬みのためイエス様をローマ総督ピラトに引き渡し、処刑を要求する祭司長たち(当時、属州には人を訴え出ることはできても処刑する権限はありませんでした)、最初は期待してイエス様を歓迎していたのに権力者によって巧みに扇動されていく群衆、興味を持っていたイエス様が自分の期待に何も応えないのに腹を立てイエス様を侮辱した挙句ピラトに送り返す領主ヘロデ、何の罪も見いだせないと一旦は釈放も考えたものの最後、保身のために群衆の激しい要求に屈し、処刑を決めてしまうピラト(もし過越祭で混雑するエルサレムの治安が混乱したら、総督の地位を失うかもしれません)、またイエス様に従ってきた婦人たち。彼女たちは刑場に引かれていくイエス様を眺め、傍観して嘆いている他ありませんでした。
 そして、ついに十字架に架けられるイエス様・・・傍では、残忍で屈強なローマ兵たちが「ユダヤ人の王と」イエス様を侮辱して、乱暴の限りを尽くしています。これが、イエス様のご受難、十字架の周りで繰り広げられた人間模様でした。
 ところで、いま毎日のように戦禍にあるウクライナの惨状をテレビの映像で目にしますが、ふと思わされたことがあります。いまの世界でも、ある意味、この時イエス様が受けられたご受難の物語と同じことが起こっているのでは?ということです・・・つまり、今日の福音に登場するすべての人物がウクライナの修羅場の中に存在しているということ、またわたしたち世界中すべての人々も実は登場人物の誰かと同じ役を果たしているということ、さらに、最も悲惨な状況下で苦しまれているイエス様がおられるということです・・・遠い海外での出来事であり、他人事と高を括っていた自分の愚かさに内心忸怩たるものを覚えました。
 改めて今年も福音を読んで思いました。私たちは、一見平和な日本の社会に住んでいます。しかし、今、私たちはウクライナのような極限状態ではなくても、イエス様の十字架の周りで行なわれていた人達と同じ生き様を生きているのではないのか?時に、他人の(特に指導者)の思いに流される群衆の様に、時に自分の立場を守るために他者を批判する祭司長の様に、時にその場を平穏に収めるために、正しい決断を通せなかったピラトの様に、ローマ兵の様に、無力で傍観して悲しんでいる婦人たちの様に・・・・まさに私たちが日々の社会で生きている現実の生き様ではないでしょうか?
 ここで再び福音に戻ります。このような人間模様の中におられた末、ついに息絶えようとされる十字架上のイエス様はこの時、どうであったでしょうか?イエス様と他の人々の余りにも対照的な姿が浮かんでこないでしょうか?
 イエス様の周りは、神様のいない、神様に祈るものも誰もいない世界。一方で、ただお一人神様を見つめて祈っているイエス様。では、イエス様はどう祈られたでしょうか?
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。
 なんと、イエス様は、父なる神様に、すべての人のために、赦しをお祈りされるのです。裁きではないのです。ご自分を嘲り、命さえ奪おうとしている、普通なら神様に裁きを祈りたい、しかし、イエス様は、「彼らは何をしているのか知らないのです」と神様の赦しをひたすら祈り続けてくださったのです。
 後に分かることですが、この時、イエス様は、十字架の周りにいた人々だけではない、人が人である以上誰も避けられない罪、わたしたちすべての人の罪を贖いと赦しのために祈ってくださっておられた。同時にイエス様は一心に見ておられました。すべての人を憐れみ、お救いになりたいという神様のみ心をです。
 さて、この時、ただ一人、イエス様の中に神様を見、イエス様に祈り、イエス様から天国を約束された者があります。それはイエス様の左右で十字架に架けられた二人の犯罪人の内の一人でした。
 「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに・・・イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。この男の祈りにイエス様はお答えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。
 ある意味、この男こそイエス様の十字架を担いだ、そしてイエス様を神の子と信じ、罪を赦された最初の者と言えないでしょうか?福音にはこの後、イエス様の最後の場面が記されています。昼の12時には昼にも関わらず真っ暗になった、そして、エルサレム神殿の幕が真ん中から裂けた瞬間、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。イエス様はこう叫ばれて息を引き取られます。真の神であり真の人であるイエス様が地上で残された最後の言葉でした。この時、すべての人が思いました。イエスは死んだと。しかし、この瞬間、十字架の最も近くにいたローマの百人隊長は、イエス様の中に神を見ました。
 以上の物語がイエス様ご受難の一部始終です。果たしてこの受難物語は、今週の福音で閉じられることになったでしょうか? 違いました。この後、物語は続きます。それは、来週です。その時を心静かに祈りの内に待ち望みましょう。