司祭 ヨハネ 石塚秀司
「見よ、新しいことをわたしは行う」【イザヤ書43章19節】
教会の庭には多くの花が植えられ、今美しく咲いています。冬には土のなかで寒さに耐えじっとしていた球根も暖かさを感じて芽がぐんぐん伸びて、成長した茎の先にはふくらんだつぼみがまさに咲き出そうとしています。大斎節も終盤となり、十字架にかけられたイエス様が蘇られるその時が近づいていることを一足先に感じることができるレントにふさわしい庭の風景です。
今日、私たちに与えられた旧約聖書は、第2イザヤが表したと言われるイザヤ書43章です。エジプトを脱出したイスラエルの民がバビロンから解放されてまた再びエルサレムへ帰還するという預言が実行されるという壮大な希望が描かれ、43章19節で「見よ、新しいことをわたしは行う」と、イエス・キリストの復活への予感を連想される箇所が選ばれています。
パウロも、フィリピの信徒への手紙第3章11節に、宣教者としての苦難の日々の中で、イエス・キリストが捕らえられ、むち打たれ、そして十字架にかけられる姿を常に思いながら、それぞれの重荷を負いつつ、キリストに生かされ復活の力を信じて歩むことを呼びかけ、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と、まさに主のご復活が近づいていること、新しい時が与えられていることを想像させる言葉で、私たちに生きる希望を語っています。
そして、ルカ福音書の第20章9節以下は、「ぶどう園と農夫の譬え」といわれる箇所です。 ぶどう園の主人は、農園の管理をすべて任せて、長い旅に出かけます。やがて収穫の時がやってきます。そこに主人の使いの僕がひょっこり現れて、ご主人様の分け前分を渡すようにと言ってくる。農夫たちの過酷な肉体労働の日々にも関わらず、農園の主人からは何の見返りや感謝の言葉も無かったかもしれません。そうなれば、農夫たちにも言いたいことがあったことでしょう。でも、農夫たちは、長く農園で働いているうちに、農園も収穫も自分のものになっていったのかもしれません。主人の僕の申し出に同意できず、反逆的な態度を示し、しかも次々送った僕もひどい目に遭わせて帰らせ、さらに主人の愛する息子を送っても、農夫たちは、財産目当てに殺害してしまいます。
この譬え話は、このような農夫たちの姿に、自分自身を置き換えてみることができます。姿を現さない農園の主人は神様。その愛する息子はイエス・キリストであったらどうでしょう。農夫たちの役目は神様から預かっている土地を耕し、神様か与えられた仕事をすることが大切であったのではないでしょうか。それなのに、神様の愛するみ子を殺した。しかしそれは、決して2000年前のユダヤ教の指導者たちに限られるものではありません。神様のものを自分のものと思い込み。自分のしたい放題に生き、み言葉に真剣に耳を傾けず、受け入れようとしないでいる私たちに、イエス様はこの譬えを語りかけていることがわかります。
私たちを取り巻く全ての物質は、自分で作り出したものは何一つありません。すべてこの地球の資源から得ている訳です。食べ物はもちろんのこと、着ている物も、家や様々な建造物の原料となっているものもそうです。薬品も、石油やガソリン、ガスもそうです。これを、私たちの信仰の見方で言えば、神様から与えられたもので私たちの生活は成り立っている。自分自身の存在そのものもそうです。このことに本当に気づいた時、私たちは神様のありがたさを感じることができます。聖餐式の奉献で、パンとぶどう酒、信施金をお献げして「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に献げたのです」と唱える。奉献の祈りです。お献げするパンとぶどう酒、信施金、これらは、神様から与えられている様々な恵みの象徴です。そのことに感謝し、その一部を神様のご用のためにまたお献げしていく。この思いをもって献げていくことが奉献です。
きょうの譬えの農夫たちの態度には、本来自分のものではないのに、全部を自分のものにしてしまおうという欲に捕らわれた姿が見られます。そこには、自分たちがこれだけのことをしてきたから見返りは当然だという自惚れがあります。そして、ぶどう園の主人すなわち神様との関係を全く無視し、凶悪な態度をとる動物的な人間の本性を現わしているかのようです。そこには神様への感謝などありません。これが今の私たちの姿であるかもしれません。
自己中心で、道をそれることの多い私たちは、自分の罪によって、神様の愛するみ子、イエス様を十字架につけてしまっていることに気づき、古い自分を打ち砕かれて、神様へ心にむけ、希望を持って生きることを神様は望んでおられます。
紀元前538年頃、ユダヤの人々にとってエルサレムへの帰還の希望がまさに現実になろうとする時の出来事に、私たちも思いを合わせて主のご復活の喜びを待ちたいと思います。
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